英ロイヤルオペラハウス「蝶々夫人」をアップデートするプロジェクトに関わりました

英ロイヤルオペラハウス「蝶々夫人」をアップデートするプロジェクトに関わりました

英ロイヤルオペラハウス(ROH)では2021年から、レパートリー作品における人種差別的な要素を見直す方針となりました。その一環として、「蝶々夫人」のステージングも見直しのプロジェクトが立ち上がり、私は日本側の代表の一人として参加しました。新演出ではなく、既存の演出の視覚面(衣裳、メイク、日本人役の動きの見直しなど)のリバイズです。

 

 

ROHの新しい方針についてのニュースをたまたまネットで目にしたのが昨年10月。

ここ数年、アメリカを中心に世界では#Me Too運動やBlack Lives Matter運動が起きたり、LGBTQ+に対して以前より認知が高まったり、テレビ番組などでは多彩な人種を反映させたキャスティングが行われるようになったりしていましたが、ついにオペラもその波に乗ったのか… と感慨深くニュースを読んでいたら、その直後に、ROHに勤務するElaine Kiddから連絡があり、私に「蝶々夫人」の演出をアップデートするプロジェクトに参画してもらえないかとの依頼だったのです。

 

Elaine Kiddは現在ROHのヤングアーティスツプログラムの所長。2017年、二期会「ばらの騎士」の際に演出リチャード・ジョーンズの助手として来日し、私は日本側の演出助手として、彼女と1ヶ月半を共にしました。

またそれより以前、私が2014年にROHのヤングアーティスツプログラムで研修したという縁もあって、声をかけてくれたようです。

 

11月から3回、オンラインでROHでのミーティングに参加し、全体の方針に対して日本人として意見を述べたり、衣裳やメイクの改定のために、日本でオペラの舞台で活躍されている半田悦子さんをご紹介して、一緒にミーティングに参加して通訳したり、資料のやり取りをメールで何度も行いました。

その結果の「蝶々夫人」が今月、ROHで上演されます。

 

 こちらが、イギリスの新聞The Guardianに今週掲載された、このプロジェクトに関する記事です。

https://www.theguardian.com/culture/2022/jun/05/royal-opera-madama-butterfly-japanese-culture

 

 

ROHの現在のプロダクションは、 Moshe Leiser と Patrice Caurierによる演出で、初演は2002年。もう20年前のものです。演出の全体的な印象は、オーソドックス基調でありながら日本人役の衣裳やメイクはカリカチュア気味。歌舞伎っぽい真っ白なメイクや、形をなんとなく似せているけれどディテールが間違いだらけの着物。ヘアも、19世紀後半だとすれば着物の女性は結い上げているべきですが、平安時代のようなダウンスタイルだったり。

2002年初演ということはプロダクションのプランがおこなわれたのは1990年代でしょうし、その頃の価値観ではまだ、西洋以外のカルチャーのディテールを軽視したとしても仕方ないと思います。

 

 

最初に参加したミーティングは、このプロダクションの見直しを行うにあたっての意見出しと、方針の確認が目的でした。ROH側の参加者は、レジデントディレクター、衣裳部門やメイク部門の担当者のほか、スズキ役を多く歌っている歌手など。そのほかに私のように外部からの参加で、中国人メゾ歌手、ロンドンの大学で教鞭をとっている日本歴史研究者の方などが参加していました。

その場では、そもそも19世紀後半〜20世紀初頭の西洋優位の価値観で書かれたこの作品を、そもそもレパートリーとして残しておくべきなのかという根本的なところから話し合いが行われました。

その時に議題に上がったのは、ほかに

  • 現演出では、蝶々さんの家の使用人たちの姿勢や態度が卑屈すぎる。日本人を見下したような演出にしないようにしたい
  • ヘアメイクはできるだけ正確にしたい

といった、ステージングに関する意見のほか、

  • 日本人・アジア人役にはもっと日本人・アジア人を起用したいが、一方で、歌手本人にとっては、例えばアジア人のメゾソプラノ歌手の場合、スズキのオファーばかりがきて、キャリアの幅が狭められてしまう。本人のキャリア形成にとってマイナスにならないようにも配慮すべき

といった、キャスティングに関する課題も指摘されました。

 

私には、現在のプロダクションを見た上でのコメントを求められ、以下のように答えました。

「蝶々夫人は日本では非常に愛されているオペラ作品の一つ。ということは、演出の方法さえ間違わなければ日本人にも受け入れられる作品であるということ。それにプッチーニの音楽は素晴らしい。初演時の台本は今のバージョンよりもっと差別的なセリフがあったが、それが削除されたので、今の台本は日本人に受け入れられる範囲。祈祷の文句が変だったり、人名が変だったり、ディテールがおかしい部分はあるが。

そもそも19世紀半ばまで日本が鎖国していたため西洋に遅れをとり、アメリカとの間で不平等条約が結ばれていたりしたのは歴史的事実であり、蝶々夫人はその歴史の文脈の中で語られるストーリーなのだから、それを無かったことにする必要はない。

ただ、衣裳やメイクなどは時代考証をしっかりしてほしい。ファンタジックな物語として、Metのミンゲラ演出のプロダクションのように、リサーチはした上でデザインとしてデフォルメするならそれはそれでありだが、忠実に描く意図のプロダクションにもかかわらずデザインが間違っているのは気になる。日本で上演する場合はそこはかなり気を遣って演出されている」

 

 

2月に行われたミーティングでは、日本側の衣裳の専門家として、オペラを中心に活躍されている半田悦子さんが参加され、既存のプロダクションの衣裳・ヘアメイクに対する具体的なコメントを、ROH側の衣裳・ヘアメイク部門の担当者の方にお伝えしました。資料や写真も半田さんから数多く提供されました。

 

5月に行われたミーティングでは、総括として、衣裳・ヘアメイクに関連して行なった修正、日本人のムーヴメント専門家の方に稽古に参加してもらっていることなどの報告がありました。

またキャスティングについては、キャスティングディレクターとROHのディレクターより、日本人・アジア人を積極的に登用したいが、そもそも最近日本人でヨーロッパで活躍している人が少なくて困難なこと。一方で、その人種でなければその役を歌えないのか?という問題。歌手本人にとってのキャリアが狭めらてしまう問題などが、今後引き続き考えていくべく課題として提示されました。その際、歌手側としては、例えばスズキ役と同時に、別の作品の別の役もオファーしてもらえれば、「ああ、私はアジア人だからではなくて、歌の力量でキャスティングされたのね」と思うことができる、という意見も出ました。

 

正直なところ、ROHの既存のプロダクションは、完全に新制作でプロダクション自体を刷新しないことには、日本人も完全に納得できる公演にするには難しいのではないかと感じています。しかし、こういった議論が提議され、オペラハウスをあげて問題解決に取り組もうという姿勢、そのアクションを社会と観客に積極的に発信していく姿勢は、本当に学ぶべきことが多く、心から敬意を表すると同時に、世界の価値観がどんどん変わっていることに感慨を覚えます。

 

 

 

 

 

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