ガリレオ博物館

ガリレオ博物館

 もう一つ、日本のガイドブックにはあまり載っていないかと思われる「ガリレオ博物館」。外観の写真を撮るのを忘れましたが、ウフィツィ美術館の近く、アルノ川沿いにあります。

 地動説を支持して異端尋問にかけられたことで有名なガリレオはフィレンツェ出身です。彼が自ら開発した望遠鏡で天体の観察を行い、地動説につながる様々な発見をしていたのは、ちょうど初のオペラ作品がフィレンツェで生まれた1600年頃と重なっているということに私は注目しています。

 ガリレオのお父さんヴィンチェンツォ・ガリレイは音楽学者で、音響学の研究をし、オペラを生んだ芸術家・研究家集団フィオレンティーナ・カメラータのメンバーであり、自ら作曲もしていました。ルネサンス当時、音楽はその法則性の規則正しさから、科学の一種とも捉えられていました。ガリレオが天文学の道に進んだのは父親の影響も大きかったに違いありません。

 芸術に莫大な投資をしていたメディチ家は、科学分野の発展にも盛大な支援を行っていました。科学の精密機器の収集に特に力を入れたのはコジモI世(1519-1574)で、科学の発展を自らの権力を誇示するツールとも見なしていたようです。ここにある展示品も多くがもとはメディチ家のコレクションだったそうです。

 直接ガリレオに関する物だけではなく、ルネサンス以降の科学技術や知識の発展に関連した様々な物が展示されているのですが、この美術館で特に魅了されたのは、地球儀のコレクション。とにかく凄い数があります。

  ガリレオ以前に地球が丸いことは周知の事実となっていたものの、当時はまだ天動説が信じられていました。これはプトレマイオス理論に基づいたアーミラリー・スフィアと呼ばれる天体運行模型で、1500年代後半のもの。フェルディナンド・デ・メディチ(1549-1609)により委託されました。

地球を真ん中にして、惑星の軌道が張り巡らされています。なんとも精密で美しいのですが、地球を真ん中にしなければならないがために、いかに理不尽でややこしい理論をでっちあげなければならなかったか!

 当時、地球儀は天球儀とペアで製作されていたそうで、こちらはよく見ると地理ではなく星座が描かれています。1636年製作。

 

 海洋の探検と、それによる勢力の拡大もメディチ家の野望でした。こちらは世界地図。よく見るとオーストラリアがありません。まだ「発見」されていなかった訳で・・・

 

 こちらは1557年の測量機。メモリがめちゃくちゃ精密なのに驚きます。機械がなかった時代、どうやってこの細かいメモリを刻んだのでしょう。

 

 こちらは16世紀のドイツSchisslers社の数学用機器。この頃から、イタリアでの需要に応えるため、ドイツに精密機器を製作する会社ができていったそうです。ドイツが文具で定評があるのはこの頃からの伝統なのだと知りました。

 

 ガリレオが活発に地動説を唱え始めたのがちょうど1600年の少し前あたりから。太陽と星が動くとずっと信じられてきたのに、動いていたのは地球の方だった、と信じるに至った発見は本人にとってもそれこそ天と地がひっくり返る衝撃だったことでしょう。ガリレオや、彼の研究をバックアップしたパトロンたちの精神は、研究と議論を重ねながらオペラというジャンルを生んだフィレンツェの芸術家たちの旺盛な探究心と通じるものがあるように思うのです。

 

 ちょっと時代が飛んで、18世紀の部屋もあります。人より大きなサイズの変ちくりんな機械がいろいろあります。啓蒙の時代、科学者がパーティなどで大掛かりな機械を使って、ショーアップした実験をしてみせることが流行っていたそうです。「コジ・ファン・トゥッテ」でデスピーナがメスマーの治療をするシーンは、こういうショーを連想して書いたのかもしれません。