カッチーニ「エウリディーチェ」演出ノート(1)

カッチーニ「エウリディーチェ」演出ノート(1)

 現在、1月23日本番のオペラ「エウリディーチェ」の稽古・準備中です。古楽アンサンブル・アントネッロ主宰のバロックオペラシリーズ。前回は彌勒忠史さんの演出によりモンテヴェルディの3作品を短期間に一挙に取り上げるという意欲的な企画でしたが、今回は時代を更に遡り、モンテヴェルディの先駆となったカッチーニ作曲のオペラを取り上げます。1600年作曲、まさにオペラ最初期の作品で、日本初演となります。

 今日は作品が生まれた時代背景などについて少し書きます。

 

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 ルネサンス時代終盤の16世紀末、知的探究心の高いフィレンツェの有力貴族たちは、自宅に音楽家や哲学者、文学者などを招いてオープンな勉強会を開催していた。中でもコルシという伯爵のインフォーマルなアカデミー「カメラータ」は主に、ギリシャ悲劇の音楽面からの再興を模索していた。当時、古代のギリシャ悲劇はすべて歌で演じられたと信じられていて、カメラータの面々は研究と実践によってその形態を再現しようとしていたのである。この研究がのちにオペラと呼ばれる形態の舞台芸術へと結実することになる。カッチーニもその主要なメンバーの一人だった。

 背景には、時代と芸術全般の転換があった。ルネサンスの優美で目や耳に心地よい芸術を好む傾向から、より個人の内面を重視する志向が高まっていた。バロック時代の幕開け。音楽でも単純な響きの美しさには飽き足らなくなり、心の動きやドラマを表現する欲求が生まれていたのである。

 当時の音楽はマドリガーレなどに代表されるポリフォニー(多声音楽)が中心だった。耳には心地よいが、複数の人数で歌うため当然ながら歌詞は聴き取りにくくなる。これに対して、より確実に人間の心を表すために模索して行き着いたのが一人語りのモノディ形式であり、「レチタール・カンタンド」、のちにレチタティーヴォと呼ばれるようになる、喋りと歌の中間のような形態だった。

 

 フィレンツェ・サンタクローチェ教会の近くに、コルシ伯爵の邸宅が現存している。現在は「ホーン美術館」として生まれ変わっているが、外観・内部ともに16世紀当時の雰囲気をしっかり残している。

 建物の内部に一歩足を踏み入れると、そこには典型的なルネサンス様式の回廊と小ぶりの中庭がある。まず感じるのは、この空間は演劇にとても向いているという事である。


事実、ルネサンス時代には、大邸宅の回廊式中庭でさまざまな催し物が行われていた。例えばアルノ川を渡ったところにあるメディチ家の別宅ピッティ宮殿の中庭では、結婚式などの際に盛大に芝居や音楽劇などのエンタテイメントが上演された。

ピッティ宮でのインテルメディオ(幕間劇)

 

 

 実はカッチーニの「エウリディーチェ」は、作曲当時に実際に上演された記録はない。というのも、もともとこのオペラはメディチ家の娘の結婚式の催し物として、ペーリという別の作曲家が作曲し、ピッティ宮殿で上演されたのだ。台本はリヌッチーニ。ペーリもリヌッチーニもやはりカメラータのメンバーであり、ペーリとカッチーニはライバル同士だった。カッチーニが一方的にライバル意識を燃やしていたと言うほうが正確か。カッチーニの伝記的な書物には必ずといっていいほど、彼が嫉妬深く性悪な人間だったと書いてある。ともあれペーリに実績を先取りされたくないカッチーニは、同じ台本に自分も急いで曲を書き、ペーリより先に出版した。出版はしたものの、公に上演される機会はなかったとみられる。

 しかし功名心の強いカッチーニのこと、私的な形でも上演を試みた可能性はあると想像する。その場合、その試演会はこのコルシ邸で行われたのではないだろうか。そしてカッチーニ自身がオルフェオを演じ、コルシ伯爵も参加したかもしれない。(コルシ伯爵は自身も音楽家であり、ペーリの「エウリディーチェ」上演ではチェンバロ担当だった。)またカッチーニの弟子の歌手たちも出演したことだろう。(ただカッチーニはコルシと折り合いが悪かったとの説もあるようなので、これはあくまで忠実な史実ではなく演出のためのインスピレーションです。)

 

 「エウリディーチェ」台本を通読してまず最初に強く印象に残ったのは、3場終盤(作品前半の終盤)にある、「森羅万象は変化する」といった意味のテキストである。ここでは季節や天候が巡り行くさまが書かれており、宇宙的な広がりを感じさせる。

 16世紀末はまさしく時代の転換期だった。その頃、同じフィレンツェではガリレオが自作の望遠鏡で惑星の観察を行い、地動説を公に唱え始める。天が動いていたと信じきっていたものが、動いているのは地球だなんて、まさに天と地がひっくり返る、価値観の大転換である。

 実は、ガリレオの父ヴィンチェンツォ・ガリレイは音楽学者であり、カメラータのメンバーだった。正確に言うとコルシ伯爵が主宰したカメラータではなく、その前身であるバルディ伯爵のカメラータで活動し、「エウリディーチェ」が発表された1600年にはすでに死去していたのだが。音響を数的に観察し把握しようとした彼の手法は息子に受け継がれた。ガリレオが当時の一般的な科学者たちのように哲学的な思考によってではなく、純粋な実験観察に基づいて数々の画期的な発見をしたのは、父親の影響が大きいとされている。

 以前も紹介したフィレンツェの「ガリレオ博物館」には、ガリレオが使用した望遠鏡を始め、当時の地球儀や天球儀、様々な科学実験器具などが展示されている。

 こちらは日時計の一種。1587年のもの。

 

 オペラの誕生と宇宙の真理の重要な発見は、「この世界と人間をより深く知り、表現したい」という当時の人々の知的欲求で結びついている。

 

 次回に続きます。