フェイスブックで知り合いのイギリス人演出家が紹介していた、英インディペンデント紙の記事が興味深かったので訳してみました(多少省略しています)。現代のオペラにおける演出の問題を取り上げています。「難解でアイディア先行の現代演出にはウンザリだが、今日の観客は二流の古くさい演出で満足できる訳でもない」という下りはその通りだと思います。
私自身も、過剰な演出先行のRegietheaterはいつか揺り戻しが来るだろうと思っていたので、やっとそういう動きが出てきたのかなと思います。
解決策となるかもしれない?ENOの「トリスタン」新制作がどんなプロダクションなのか、果たして新しい手法の発見となるのか、失敗するのか、興味津々です。
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「全体芸術」の概念はENO、そしてオペラそのものを救えるか?
来週、イングリッシュナショナルオペラでは「トリスタンとイゾルデ」の新制作が開幕する(演出:ダニエル・クレーマー、指揮:エドワード・ガードナー、美術:アニッシュ・カプール、トリスタン:スチュアート・スケルトン)。近年ENOは財政難に見舞われ、運営面でも様々な困難に直面しており、大ヒット作が是非とも欲しい局面である。
演出のクレイマーによれば、このプロダクションでは「詩的で神秘的な世界を立ち上げ、音楽と歌手がただシンプルに神になれるようにした」とのこと。これは不思議なほどワーグナー自身の理想に近く、近年としては稀なコンセプトである。1849年にワーグナーは「未来の芸術作品」というタイトルで数々の論文を発表し、音楽・ドラマ・デザイン・ダンス等が一体となった「全体芸術作品」という概念を構想している。
このコンセプトは今日、改めて革新的な意味を持っている。
現在フェイスブックには “Against Modern Opera Productions”(現代演出オペラに反対する会)というグループが存在する。彼らはここ数十年のヨーロッパオペラ界を席巻してきたRegietheater(演出主導のオペラ)を毛嫌いしている。オペラ関係者らはこの動きをこわごわと眺めているが、このグループは35,500件もの「いいね!」を集めている。ENOの客席を2週間に渡って満席にできるほどの数である。
オペラの観客は本当にRegietheaterに対して反乱を起こしているのだろうか? 先日、私がハンガリア人の指揮者イヴァン・フィッシャーを取材した際、彼は「しなやかで統一感のあるオペラを創り上げる方法を探っている」と語った。ここ数十年のオペラの傾向として、演出面ではオリジナリティを追求し、音楽面では歴史的な正確さを追求してきた結果、舞台と音楽の関係性が切れてしまったままの状態が続いていると彼は言う。演出のRegietheaterはもはや陳腐で型にはまったものになってしまっており、そろそろ変化が必要な時期だ、と。
私自身はRegietheaterに反対しているわけではない。インスピレーションに満ちていて一貫性があれば、Regietheaterはよく知られた作品に真に価値のある新しい光を投げかけるものである。しかし、確かにオペラには新しいアプローチが必要な時期だとも思う。オペラ初心者の観劇意欲を削がず、同時に、古くからのオペラファンをうんざりさせないような方法が求められている。ある時私はテノールのジョセフ・カレヤに、これまで経験した中で最も突飛な演出はどんなものだったか訊いたことがある。彼は「リゴレット」のマントヴァ公爵を猿の着ぐるみを着て歌ったことだ、と言った。その演出の設定は「猿の惑星」だったのである。
私が数年前に観たバイロイトの「タンホイザー」は全体が劇中劇として演出されており、どこか未来の社会でこの作品を上演しているという設定だった。舞台は巨大な機械に占拠されており、きっと相当な予算規模だったに違いないが、作品そのものには一切何ももたらされていなかった。昨年のバイロイト「トリスタン」新制作では悪意に満ちた独裁的なマルケ王が登場したが、音楽にもテキストにも、マルケ王がそんな人物だとは全く書かれていない。そして恋人達は最高に美しい二重唱を観客に背を向けて歌っていた。
しかし一方で、伝統的な演出が受けるとも限らない。比較的トラディショナルな公演を上演するメトも最近は苦戦しており、今シーズンはチケット売上が史上最低を記録する見込みである。ENOも安全で伝統的な中道のプロダクションを上演するべきだという意見もあるが、ロンドンにしろニューヨークにしろ、そういう演出が求められている訳でもないのだ。観客は、難解で一貫性のない演出は嫌がるが、意外性に欠ける二流の公演でも満足はしない。オペラハウスが観客を集めたければ、今日の観客が何を求めているかを正確に知らなくてはならない。現代の観客は1950年代とは違う。さらに言えば2000年代とも違ってきているのだ。
という訳で、ワーグナーの「全体芸術」を新たに採択する方法に鍵があるかもしれない。想像力に溢れ、洗練されスタイリッシュでありながら、全体の調和がとれた舞台を作ることは可能なはずである。
もしクレーマーがENOで力強くシンプルで形而上的な舞台を創り上げることができたら、この劇場は前に進めるかもしれない。ワーグナーの「全体芸術」はENOの救世主となるだろうか?
原文:The Independent, Jessica Duchen, 6月10日