今年をプッチーニ特集で締めくくるのにちなんで、最近観たプッチーニの舞台について考察。
コーミッシェ・オーパー・ベルリン「ラ・ボエーム」(2019年) 演出:バリー・コスキー
今年の春に初演された、コーミッシェ芸術監督であるバリー・コスキー演出のボエームがYouTubeに全幕アップされている。(なぜか字幕がトルコ語だが、YouTubeの機能でリアルタイムで他の言語に変換可能。)
https://www.youtube.com/watch?v=MRihV2bva7E
コスキーといえば大胆な読み替え演出、しかもあまり趣味がよくない舞台もあるのだが、このボエームについては比較的作品に忠実に、作品のスピリットを生かした範囲でちょうど良い具合のアップデートがされており、歌手たちの演技が生き生きしていて、久しぶりに良いボエームを観たと思った。
このプロダクションのメイキングビデオによれば、舞台設定は19世紀終わり、ちょうどボエームが書かれていた頃のパリ。マルチェッロは画家ではなく写真家、具体的には、ダゲレオタイプの写真家である。
ダゲレオタイプとは19世紀にフランスで発明された写真の初期の技術で、銀メッキされた銅板に化学物質を使って画像を焼き付けるもの。
写真というアートフォームの登場は、人間の生きる一瞬を永遠に捉えられるという意味で画期的だったが、ダゲレオタイプの画像は放置すると崩れて消えてしまうものでもあった。
コスキーはこの「一瞬を捕らえる・そのイメージがすぐ消える」というダゲレオタイプの特性を、ボエームの「青春の儚さ」と重ね合わせたという。
パリに住む若いボヘミアンのマルチェッロが最先端技術のアーティストだというのは納得。現代でいえばユーチューバー?
一幕の屋根裏、二幕のモンマルトルの舞台美術は、ブラックボックスシアター的な剥き出し感の中にキッチュなテイストが混じっておしゃれ。二幕は当時のカルチェラタンの活気と猥雑さが、ぐるぐる回る盆と、いかがわしい様相のごった返す人々で表現されている。
ロドルフォ、マルチェッロ、ショナール、コリーネの4人がとにかく元気でよく動くし、仲が良さそう。さすが8週間も稽古期間があるコーミッシェ、アンサンブルが緊密で、ボエームらしい楽しさが満開。
面白いのは、家主のベノワの場面で本人は登場せず、4人が代わる代わるベノワの真似をしてふざけるという演出になっていること。これを見てしまうと、もうこれ以外のバージョンはありえないという気がしてくる。
ミミは通常よりも元気はつらつな女の子として描かれている。一幕はまだ病気ではないようだ。その彼女が三幕で急に深刻な病状を表すので、青春や命の儚さがより強調される。
四幕のラストでは、ミミが死ぬ直前、マルチェッロが彼女を写真に収める。その写真は、彼女の死とともにすぐ消え始める。切ない。
エクサンプロヴァンス音楽祭「トスカ」(2019年) 演出:クリストフ・オノレ
トスカは読み替え演出が困難な演目と思われてきた。史実を織り交ぜた作品であり、1800年代のローマの場所の名前や実在の人物の名前が登場するため、具体的すぎて他の設定にすることが困難だからだ。どこの歌劇場でも、トスカだけは新演出しても大して変わらないし、むしろそれでいいのだと捉えられてきた。
が、このプロダクションは全体が「ディーヴァという存在の考察」というコンセプトでまとめられ、通常のトスカとは全く違う作品になっている。こちらもYouTubeに全幕あります。
https://www.youtube.com/watch?v=fEu55qres6A
通常の登場人物たちにプラスして、往年のプリマ、キャサリン・マルフィターノが「プリマドンナ」という黙役として本人を演じている。彼女の豪奢な家で、ドキュメンタリー撮影のためにテレビクルーが全てを撮影しているという設定。
一幕は彼女の家に「トスカ」のキャストたちが集まってきて、トスカの音楽稽古を始める。前芝居で、召使がマルフィターノに「ゲストが到着しました」と告げる。これは映画「サンセット大通り」(往年の大女優をテーマにした代表的な作品)冒頭のオマージュらしい。
マルフィターノはその成り行きをリードしたり見守ったり、自身がトスカを歌っていた頃の思い出に浸ったりしながらその場にいる。彼女の姿は常に、リアルタイムで撮影されているアップの映像でスクリーンに映し出されており、「かつてのプリマ、今は引退した歌手」である彼女の揺れ動く心情が露わになる。良くも悪くも全てがオンタイムで世間にさらされる、SNS時代の剥き出しの表現。
トスカはアメリカ人の黒人ソプラノ、エンジェル・ブルー。トスカを歌うのは今回が初とのこと。カヴァラドッシ(ジョセフ・カレヤ)はマルフィターノに最大の敬愛を示しつつ、トスカを歌うブルーにも惹かれている様子。そこにスカルピアを歌うバリトン(アレクセイ・マルコフ)が入ってきて傲慢に振る舞い、部屋は不穏な空気になる。
一幕最後のテ・デウムは、部屋に集まってきた児童合唱や野次馬たちが、マルフィターノがロイヤルオペラハウスでトスカを演じた際のポスターを掲げ、それに群がりながら歌う。マルフィターノ本人はその様子に恐怖で怯えている表情が、それもひたすらアップで撮られている。崇めたてられるセレブの虚像と、怯える本人のギャップ。
二幕はその晩。キャストたちは部屋でそれぞれにお酒を飲んだりリラックスしたりしているが、スカルピア役の歌手がトスカにセクハラを始める。“Vissi d’arte”では、ブルーが歌う間、過去にトスカの名歌手として活躍したソプラノたちの映像が次々映し出される。トスカを歌うソプラノ全てが、客体化されて相対化される。
歌っている彼女に、トスカの赤い衣装があてがわれ、着せられる。トスカといえばこれ、という、1800年前後に流行していたエンパイアドレスである。衣装を着てブルーはついに「いわゆるトスカ」になる。
ところで、欧米ではオペラ、ミュージカルでも肌の色を考慮しないキャスティングcolor-blind castingが進んでいる。設定としては白人しかありえない役でもアジア人や黒人が歌うことは普通になってきた。さすがにトスカを黒人歌手が歌うことは珍しいだろうが、このプロダクションに関するヨーロッパの批評記事でその点に言及しているものは見かけない。color-blind castingが進んでいる以上、批評でもそのことに言及するのはタブーなのだろう。
しかし、トスカに黒人歌手を持ってくることを演出家が無意識にやっている訳はない。黒人歌手が赤いトスカの衣装を着て、「次世代のトスカ」になる。過去の様々なトスカたちの映像を前にして。こうやって、トスカというディーヴァが時代とともに変化していることが表される。
三幕はトスカのコンサート上演という設定で、オケはステージ上に乗せられている。立派に勤めるブルーとカレヤ。それを舞台上部で見守るマルフィターノは、手首を切って自殺する。
ディーヴァの表現がいかにもステレオタイプなところが多いのがこのプロダクションの弱さで、最後の自殺は特にチープだと思う。
一昨年のエクサンプロヴァンス「カルメン」(チェルニヤコフ演出)が、大胆な読み替えながら細部まで徹底的に考え抜かれていたのと比べて、このプロダクションは無理やり辻褄合わせをしているところも多々ある。それでも、トスカの音楽を新しく客観的に聴けた場面もあった。
オペラの中でもトスカは特に観客を物語や人物にのめり込ませるタイプの作品だが、そこにいわゆるブレヒトの異化効果を持ち込んで、作品に客観的な見方を導入することには成功しているように思う。
もちろんこれは従来のトスカを散々見ているヨーロッパの観客に対してこそ成り立つ演出であって、この作品を初めて見る観客には全く不向きであるが・・・。