有名な小説を原作としているオペラは数多くあり、メリメの「カルメン」やデュマ・フィスの「椿姫」、ボーマルシェ「フィガロの結婚」などは日本でも文庫本ですぐに手に入る。しかし「ラ・ボエーム」の原作として常に名前だけは紹介されているアンリ・ミュルジェ作「ボヘミアンの生活風景」は日本語で出版されていないようで、気軽に手に取って読めないのが残念。
私はこれを英語で読んだのだが、脱力系コメディという体でかなり面白い。(原文はフランス語。)オペラ「ボエーム」を知っている人なら読めば思わず吹き出してしまうディテールに事欠かない。これほどポピュラーなオペラの原作なのだから興味がある人も少なくないだろうし、ぜひ日本語でも出版されてほしいと思う。実際、ロドルフ(ロドルフォ)、マルセル(マルチェッロ)、ショナール、コッリーネの4人が知り合った経緯や、マルセルがミュゼット(ムゼッタ)と恋人同士になったいきさつなどは、作品に関わる人ならば知っておいて決して損はないはず。
この小説は新聞連載として発表されたもので、数多くのエピソードが連なる形でできている。最初のエピソードでは4人の若者たちが出会って仲良くなった経緯が語られる。
物語の冒頭に登場するのは音楽家ショナールである。彼はアパートの家賃を2か月間滞納しているうえに、今日が部屋の契約最終日で1時間後には部屋を引き払わなければならないのだが、いまだに家賃を払える当てもない。入口ではアパートの管理人が、家賃未払いの住居人が勝手に出ていかないよう見張っている。ショナールは管理人をうまくだまくらかし、家具やピアノは部屋に残したままトンズラする。入れ違いに部屋の新しい賃借人がやってくる。絵画のカンバスなどの荷物を携えたこの男はマルセルである。入居予定の部屋が家具付きになったと管理人から知らされ、思いがけない幸運に喜んで入居する。
ショナールは街をふらついた後、夕刻になって入ったカフェで自称哲学者の若者と知り合い意気投合する。これがコッリーネだ。夕食を共にした2人は仲良く店を出て2軒目、カフェ・モミュスに入る。そこにいたのが詩人のロドルフであった。
年の頃も似通った芸術家の卵たちは初対面ながら芸術談義に花を咲かせ、飲みすぎてグデングデンに酔っぱらう。正体失うほど酔ったショナールは、残りの2人に「うちに来て泊まれよ」と誘う。自分が今日から宿無しであることなどすっかり忘れているのだ。3人がアパートにたどり着くと、部屋の中からピアノの音がする。いったい自分の部屋に勝手に上り込んでいるのは誰だと逆上するショナール。ドアをノックすると出てきたのはマルセル。赤の他人にも関わらず、さびしがり屋のマルセルは気安く3人を家に入れてやる。盛り上がった後そのまま寝込んでしまう4人。朝になると誰も夕べの経緯を全く覚えておらず、お互いの顔もわからない始末。自分は既に宿無しだったことをようやく思い出し出ていこうとするショナールにマルセルは提案する。「僕には家があるが家具がない。君には家具があるが部屋がない。君、ここにこのまま住んだらどうだ」かくして、マルセルとショナールの共同生活、そして4人の緊密な友情関係が始まるのである。
ちなみに、小説の初めで一緒に住み始めるのはこのようにマルセルとショナールであり、ロドルフとコッリーネがパリの反対側の端に住んでいるということになっているが、小説の途中になると今度はマルセルとロドルフが同居している。仲良しの4人は、こうしてあちこち引っ越ししながらペアを替えて一緒に住んだり離れたりしているわけである。
この小説はミュルジェの自伝的作品である。ミュルジェ自身がパリで貧しくも天衣無縫なボヘミアン的青春を送ったのだ。そしてこの「ボヘミアンの生活風景」が事実上彼のブレークとなったわけだが、その後はヒット作に恵まれず、短い生涯を閉じた。
プッチーニ自身はパリに住んだことはなかったが、ミラノでの学生時代にやはり同じような青春を送っていたため「ボヘミアンの生活風景」には大いに共感するところがあったらしい。その体験がラ・ボエームの創作に生き生きとよみがえったのだった。