スタンダール「ロッシーニ伝」

 

 近々ロッシーニ作品の公演に関わるので、スタンダール著「ロッシーニ伝」を読んでみた。これまでもロッシーニの伝記を読んだことはあるが、「ロッシーニ伝」は文豪スタンダールが書いたという理由を抜きにしても特別な本である。なぜならスタンダールはロッシーニと同時代を生きた人であり、当時のオペラ界や風俗、作曲家自身の人となりまで、まさにその時その場で観察したものを記した本だからだ。ロッシーニの各作品についての詳細な批評に加え(録音というものがない時代のこと、彼はヨーロッパ各地のロッシーニの公演に通い詰めてこれを書いた。要するにロッシーニの追っかけ、ロッシーニオタクである)、歌劇場にやってくる当時の観客たちの様子や、オペラ界のゴシップなどが生き生きと描かれている上、イタリア、ドイツ、イギリス、そして自国フランスの音楽と人間の性質を皮肉な見方で一刀両断に切っていくさまは、「言い得て妙!」とにんまりしてしまう。ちなみにロッシーニは1792年生まれ、スタンダールは1783年生まれでロッシーニよりも9歳年上。

 面白いのは、スタンダールはこんなに分厚い本(邦訳書で厚さ4cmもある)を書き上げるほどこの作曲家に入れ込んでいながら、決して全面的に礼賛しているわけではなく、むしろ彼の作品をかなり辛辣に批評していることである。そしてその批判は、私が常々ロッシーニについてモヤモヤ感じていたことを、バッサリ遠慮なく言葉にしてくれている。

 実は私はロッシーニの曲を毎日聴き続けていると飽きてしまう。稽古を繰り返すうちに新しい発見を感じられなくなってしまうのだ。これは好みの問題もあるから、ロッシーニを好んで聴いている方はもちろん反論があると思うが、恋の喜びを歌うシーンでも、苦しみを歌うシーンでも、聴いていて胸をえぐられたり、ぎゅーっと切なくなったりすることがない。モーツァルトだと数週間の稽古を経ても、本番になっても、発見が尽きることがないのだが…。ロッシーニの感情は単色に思える。モーツァルトのような、いくつもの矛盾がいっしょくたになったような感情を感じられない。

 スタンダールは芸術にとって一番大切なのは情熱だと書いている。「芸術において人より抜きん出るには、身を焼き尽くす情熱の炎を感じた経験がなければならない。青年時代に恋に来るってさんざん笑い者にされる、という必要不可欠の体験をせずにいたら、どれほど才気に富み、どれほどとぎすまされた頭脳の持ち主でも、ヴェールを通したようにしか芸術が見えないものだ。」 そして、ロッシーニの最大の欠点は、彼が恋愛において成功しすぎたため、この必要不可欠な体験をせずにきてしまったことではないかと語っている。

 「セヴィリアの理髪師」のロジーナについては、初めて恋をする若き10代の女性にしては手馴れすぎ、堂々としすぎていると指摘する。1幕のカヴァティーナ “Una voce poco fa”は「活気はあるが、勝ち誇りすぎる。虐げられた若い被後見人の歌にしては自信満々で、恋心がほとんど聞き取れない。」 「ロッシーニが女性に対して信じられないほどの満足すべき成功を収めたのは、非常な冷淡さと無関心のおかげだった。『理髪師』と以後のいくつかのオペラを見て、私はこのような成功を強く恐れる気持ちになっている。個々の女性をまったく区別できないからこそ、成功したのではなかろうか。ローマの貴婦人たちを征服したために、女性の真の魅力を感じ取れなくなったのではないかと心配だ。『理髪師』でも、深い愛情を描き出すべきときに、優美で凝った音楽をこしらえ、抑制のきいたスタイルを一歩も出ない。」

 また、「オテロ」については、シェイクスピアの原作からして嫉妬をテーマとする作品にもかかわらず、嫉妬という感情を描けておらず、「フィガロの結婚」の伯爵のアリアに匹敵するアリアは一つもないと断じている。

 スタンダールにとってロッシーニの特筆すべき才能は、スピード感と快活さである。しかし褒め言葉でさえも手放しではなく、いちいちフランス流のアイロニーたっぷりだ。「ロッシーニの音楽の第一の特徴はスピードであり、モーツァルトのゆっくりした音符が心の奥底から呼び覚ます深い感動を追い払ってしまう。」「ロッシーニが悲しい気持ちにさせることはめったにない。沈んだ憂愁のない音楽が音楽といえるか。」「生き生きとして警戒、刺激的で決して退屈させず、めったに崇高になれないロッシーニは、凡庸な連中を恍惚とさせるために生まれついたような男だ。優しくメランコリックな音楽ではモーツァルトに遠く及ばず、滑稽で情熱のこもった楽風ではチマローザにはるかに劣る。しかし活発、スピード感、刺激、およびそこから生じるあらゆる効果にかけては並ぶものがない。」「ロッシーニの楽風はパリのフランス人と少し似ている。陽気というよりうぬぼれが強く活発で、決して情熱に流されず、常に才気に富み、めったに相手を退屈させず、崇高になることはさらさらない。」

 こんなに辛辣に批評しながらも、なぜスタンダールがこれほど熱心にロッシーニに入れあげていたのか。それはおそらく、スタンダール自身が情熱家で、情熱的なイタリアに惚れ込んでフランスからイタリアに移住するような人だったからだ。フランス革命後の母国に居心地の悪さを覚え、イタリア人のストレートさを愛した。「イタリアでは、人々はまだ愛に絶望したりする」と言っている。彼は熱烈な音楽愛好家であり、ロッシーニオペラに限らず各地の劇場に熱心に通った。イタリアで彗星のごとく現れた若きスター作曲家に惹き付けられずにはいられなかったに違いない。にもかかわらず観察の表現はいかにもフランス流の皮肉いっぱいなのだから、その屈折した心情が面白い。

 スタンダールはロッシーニという人自身についても観察している。「ロッシーニの会話ほど楽しいものはなく、くらべられるものは他にありはしない。熱気にあふれ、ありとあらゆる話題にふれては、愉快で適切にグロテスクな意見を吐く。あのことを言っているなと理解したときには、もう次の意見が出てくる。しかし新しい意見が火山のように噴出する合間に、心休まる楽しい逸話が挟まるので、彼の能弁も気持ち良く聞け、人を驚かせてばかりいるわけではない。」 「ロッシーニは呆れるほど物まねが上手で、周囲の人間は誰彼なしに犠牲になる。友人の中で態度物腰におよそわざとらしさのない人物でも、何かしら人を吹きださせるような特徴を見つけ出す。」なんだか彼の音楽そのもののようだ。

 ところが、ここでどんでん返し。これだけ読むとまるでスタンダールはロッシーニと何度も顔を合わせている知人のように思えるが、なんとロッシーニはスタンダールとは一度も会ったことがないと言っていたという。はたしてスタンダールがほら吹きなのか、それとも、ロッシーニが嘘をつきたくなるほどスタンダールを嫌っていたのか? どうやら、この本の執筆時にはまだ知名度のなかったスタンダールが、自分とロッシーニとの関係を誇張して書いたというのが真相のようなのである。

 

スタンダール「ロッシーニ伝」山辺雅彦訳 みすず書房 1992年