金閣寺

 先週、神奈川県民ホールオペラ「金閣寺」(三島由紀夫原作・黛敏郎作曲・ヘンネベルク台本・ドイツ語上演)を鑑賞(ゲネプロ1日目)。重厚で素晴らしい舞台だった。本番はさらに白熱したに違いなく、観客がかつてないほど熱狂したとか。

 

 障害を持つ屈折した若い見習い僧の男が、金閣寺の美しさに対する愛憎から放火し全焼させる。実際の事件から三島由紀夫がインスピレーションを得て書いた小説が原作。

 公演そのものについての評はあちこちで書かれていると思うので、ヘンネベルクの台本について感じた事を書く。

 

 この台本について演出家自身が公言しているように、私も、オペラ化するにあたり主人公の溝口の障害が「吃音(きつおん)」から「右手の障害」に書き換えられている事に疑問を感じた。言葉が思うように出て来ない障害と、右手が不自由な障害では全く質が違うと思うからだ。(主人公のモデルとなった人物にも吃音があった。)

 

 原作で主人公が自分の吃音について話している箇所が絶妙なので書き出してみる。

 「体も弱く、駆け足をしても鉄棒をやっても人に負ける上に、生来の吃り(どもり)が、ますます私を引っ込み思案にした。(中略)・・・吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風邪とおしをよくしておくことができるのに、私にはどうしてもそれができない。鍵が錆びついてしまっているのである。

 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、・・・そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。」

 この感覚は、外国に住んで現地の言葉で生活したことのある人なら分かるのではないだろうか。周囲が話していることは十分に理解できるし、自分も頭の中では言いたいことが膨れ上がっているのに、ネイティブと同じようにタイミングよく気の利いた言葉が出てこない気後れから、つい口を開くのを遠慮してしまい、「言おうか」と決めた時にはもう絶好のタイミングは過ぎ去ってしまっている。そんな瞬間を何度か見送っているうちに、いつしか口数の少ないキャラとして自分で自分を金縛りにしてしまう、あの劣等感、疎外感を、なんと絶妙な表現で三島は言い表してくれていることか。

 なぜ主人公の障害を吃音から手の障害に変えてしまったのか創作の経緯は知らないけれど、吃音を音楽で表すのが適当でないと思ったのかもしれない。しかし、原作のテキストは主人公の内面世界をこの上なく豊穣な言葉で書き連ねてあり、主人公が実際に誰かと言葉を交わす場面は少ないのだから、オペラ化することは難しくはなかったはずだ。彼の内的な世界は饒舌な言葉と音楽で、外界とコンタクトする時はつたない言葉と音楽で表せば、かえってその落差が面白い表現になったのではないか? 

 手の障害だってもちろん劣等感の元になり得るだろう。でも三島が吃音という障害について行ったこれほど鋭敏な洞察を大事にしてほしかった。

 (でも公演自体はその台本の欠陥が気にならないほど素晴らしかったです)

 小説「金閣寺」は、屈折した若者の歪んだ自己顕示欲や膨張した内面世界と現実世界との折り合いのつかなさが、最終的に、絶対美の破壊という行為へつながる物語・・・と難しい言葉でも説明できるのだけれど、超乱暴にまとめれば「中2病の話」とも言える。おおよそ世の中の全てのことは先人がどこかに書き表しているというのは本当だと思う。時々、無差別殺人など衝動的で破壊的な事件を目にすると、そういう行為に走る前に「金閣寺」やドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいれば、その人は小説の中に自分とそっくりな人物を見つけて感動し、犯罪行為に至らずに済んだのではないかと思ったりする。