二期会「トリスタンとイゾルデ」は先週末に2公演が成功裏に行われ、あと今週末の本番2回を残すのみ。二期会の歴史において、ワーグナー作品中唯一上演されていなかったこの作品の初上演に参加できたことは大変意義深い経験となりました。そのことについてはまた改めて書きます。
さて来週、私が以前翻訳し「海外戯曲アンソロジーIII」に掲載されている戯曲、ジョアンナ・マレー=スミス作「贖い」(原題:”Redemption”)が上演されます。新国立劇場演劇研修所出身の意欲的な俳優、野坂弘さんが立ち上げたカンパニー「地平線」が取り上げる第一作目です。こちらのサイトに稽古場レポートがアップされています。
http://shinobutakano.com/2016/09/14/3066/
ジョアンナ・マレー=スミスはオーストラリアを代表する劇作家で、オーストラリアの劇作家の中では作品が世界的に上演されている数少ない作家です。彼女の作品はしばしば、中産階級の自己欺瞞や不安をテーマにしています。何気ない日常の中で見て見ぬふりをしてきた影の部分から、ある日平安を破綻させる出来事が起き、自分自身を見つめ直さざるを得なくなる、そういった作品を数多く書いています。現代社会の教養ある人に共通する問題を描いているからこそニューヨークやロンドン、アジアの各都市でも好んで上演されているのでしょう。
野坂さんは研修所で、私も師と仰ぐイギリスの演技コーチ、ローナ・マーシャルに学びました。ローナの厳しくも的確な指導を体験した舞台人にとって、いざ日本の演劇界で仕事を始めると、疑問も多く出てきます。イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国と違い、日本は演技メソッドがバラバラで、プロの場における共通の演技言語がないに等しいからです。自分が体験した学びの環境を再現したい、という野坂さんの意欲には深く共感しています。
9月22日(木)〜26日(日)、アトリエ春風舎にて。26日昼の会には私もトークに出演します。是非お出かけください。以下、プログラムに書いた文章です。
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「贖い」はある種のミステリー劇である。面白いのは、この戯曲が会話の構文の性質を利用したミステリーであることだ。
「日常会話には、『自分たちが知っている情報については、わざわざ喋ることがない』という大原則がある」(平田オリザ著「演劇入門」)。私達の日常生活では、家族など親しい者同士の会話はお互いが知っている事柄が省略されながら進む。「贖い」はこの原則を逆手にとって、極めて親密な男女の再会の場面に観客を意図的に放り込む。
久しぶりに再会するらしいこの二人の間には緊張感が張りつめ、ブツ切れの言葉の応酬が続く。途切れ途切れのセリフは、二人がお互いをよく知り抜いていることを示している。この二人はいったいどういう関係なのか、過去に何があったのか、第三者である観客には情報は小出しにしか与えられない。我々は固い堤を少しずつほどくように謎解きを進めていく。
言葉に出さずとも通じ合ってしまう二人。しかしそれは禁じられた関係だった。お互いに理解しすぎることこそが罪であり、かつて二人を破滅に追いやった原因なのだ。
再会した二人は繋がり合うための糸口を必死に探し求める。お互いの言葉の切れ端に自分を結びつけようとあがく。言葉にならない部分に、二人が共有する物語が隠されている。
作者による序文には「会話はかなり速いテンポで、ほとばしる流れのように」と指定がある。音楽で言えばこの芝居はアレグロ・アジタートの二重奏だ。嵐のような追い合いのカノンは終盤に突如、見事に調和の取れた三度のハーモニーに取って代わる。二人の心が溶け合って一つになる瞬間の転調は見事である。
このように音声的にもこだわりのある作品の特性を維持しつつ、どう日本語に訳すか。同じ意味のことを言おうとするときに、日本語は英語よりも音節が増えがちになり、長たらしくなってしまう。大事なのは、発語の語気を再現し、疾走するテンポ感を失わないことだ。2006年に作者マレー=スミス氏に直接面談の機会を得た際、意見がたちどころに一致したのは、戯曲においてセリフの中身と同じくらいに大事なのはセリフを発する勢いとリズムであるという点だった。作品を訳すにあたり、原文の持つ音楽性が日本語でもなんとか再現されるよう出来る限り努力したつもりである。