ばらの騎士(2)

ばらの騎士(2)

 来週から二期会「ばらの騎士」の立ち稽古が始まる。これは2014年にグラインドボーン音楽祭で初演されたプロダクションのレンタルで、演出はリチャード・ジョーンズ。

 プロダクションの映像はDVDが発売されていて、東京文化会館の音楽資料室にも最近所蔵資料に加わったので簡単に観ることができる。見れば見るほど、細部まで綿密に計算しつくされた演出で感心する。美術や衣裳はもちろん、演技面でも、音楽のちょっとした間はすべて動機付けがされているし、セリフに表現されている要素が全て舞台上に現実に表現されており、その緻密なプランには感服させられる。ビジュアルのテイストは「18世紀の要素を散りばめた現代風」という感じで、演出家のインタビューによれば、シュトラウスの音楽自体が時代を折衷させているのでそれに合わせたとのこと。

 小ネタも色々工夫がきいている。演出の解釈で今回面白いのは、モハメッド(マルシャリンの給仕をする黒人の男の子)の設定が通常と違うこと、オクタヴィアンとオックスの決闘のシーンで使われる武器が武器ではなく別の物なこと、3幕の宿屋でオックスがオクタヴィアンを連れ込むベッドの仕掛け・・・など。

 DVDに入っていたライナーノーツに掲載されていた演出家のインタビューがなかなか面白かったので部分的に訳します。

 

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 「ばらの騎士」は「フィガロの結婚」を引用しているが、「フィガロの結婚」と違う点は下層階級が解放されないところである。「ばらの騎士」に登場する人物たちはすべて、階級システムの維持に積極的に加担している。

 

 「ばらの騎士」には非常に保守的なジェンダー・ポリティクスがある。男性、特に貴族の男性は女性とは全く違う行動が許されている。性的にも、慣習的にも、階層的にも。男性は女遊びを豪語するが、女性は性的な自由を手にしている場合でもそれを隠さなければならない。オックスは1幕で、自分が男性であるために得をしているとマルシャリンに謝るのである。

 マルシャリンはそのことを十分に認識しているが、不平等に対して抵抗するわけではなく、むしろ共犯者である。特権階級の生活とセクシャルな冒険(ただし秘密裏に行われなければならないが)を支えている既存のシステムにおいて、彼女は優秀なプレイヤーなのである。

 物語の最後で、マルシャリンはオクタヴィアンとの関係がオックスにばれたことが気にかかり、黙っているようにオックスに頼む。というのも、もしこの関係が明るみに出ると、影響が及ぶのは彼女本人ばかりでなく、ウィーン全体の安定も揺らぐと分かっているからである。そしてオックスも、彼自身がさんざん利用してきた貴族のシステムが危機に陥ることがわかっているからこそ従うのである。

 

 マルシャリンは不安をかかえており、現実を見据えている。しかし上手なゲームプレイヤーでもある。性的にカリスマのある女性であり、たとえオクタヴィアンを失ってもまた別の愛人を得られることを知っている。シュトラウス自身も、歌手や指揮者、演出家に対し、特にマルシャリンの場面についてはテンポ良く、センチメンタルにならず演奏するようにと指示していた。これはいいアドバイスだと思う。エーリッヒ・クライバーの演奏を聴くと作品本来のトーンが表現されているが、バーンスタインだと作品は沈んでしまう。

 

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さて、最後に。「ばらの騎士」は「フィガロの結婚」以外にも、1幕冒頭で「トリスタンとイゾルデ」が引用されていたりするのは今回、仕事のために勉強して初めて気がついた。そして先日読んだ専門書に、3幕ラストのオクタヴィアンとゾフィーの二重唱は「魔笛」のパミーナとパパゲーノの二重唱の引用である、という指摘が目からウロコだったので、掲載しておきます。確かにそっくり!


参考文献: Bryan Gilliam, Richard Strauss: New Perspectives on the Composer and His Work, Duke University Press, 1992.