演出家とは・・・ピーター・ホールの言葉

演出家とは・・・ピーター・ホールの言葉

演劇とオペラの偉大な演出家、故ピーター・ホールの自伝を読み返しています。その中の「演出家とは何か」ということについて考えを述べている箇所がとても素敵だったので訳しました。遥かな目標ですが私もこんな風に仕事ができるようになればと思います。

 

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 演出家になるための決まった道というのはない。まず自分には演出ができると信じること。そして、他の分野の専門的な勉強や、演出の実践、そして他の人が演出をするところを見ることによって、やがて自分の中にもともとあったそのものになるのである。場面をユニットに分ける方法なら学ぶことはできるし、ステージングのやり方や、照明の仕組み、俳優が役を掴むための手助けのしかたを学ぶことも可能だ。しかし、どんなに勉強したところで必ず演出家になれるわけではない。どんなに訓練を積んでも必ず指揮者になれる訳ではないのと同じである。私はこれまでに、英語圏における最高峰の演出家—-ピーター・ブルックやフランコ・ゼッフィレッリ—-の公演の興行主を務め、彼らの仕事のやり方を目にしてきた。結論としては、演出のやり方というのは演出家の数だけあるということである。ダメな演出家がしごくまっとうなことを喋っているにも関わらず酷い結果を出すところも目にしてきたし、良い演出家が支離滅裂なことを言っているにもかかわらず目を見張るような結果を出すところも目撃してきた。

 演出家は俳優のことを好きでならなければならない。そして俳優は演出家を信頼できなければならない。演出家は自分の権力を悪用してはならない。たとえローレンス・オリヴィエのような最高級の俳優でさえ、何気ない一言で自信をすっかり失くして何日も立ち直れなくなるようなことがあり得るからだ。演出家は作品に対して主観的になりすぎないよう気をつけなければならない。作品を自分勝手な想像の産物にしてはならない。もし新作であれば、劇作家を稽古場に呼んで共同で作業を進めるべきだ。古典作品に取り組む場合は、作家の意図を理解するように努め、現代の観客が理解できるような形で表現しなければならない。美術家との良い共同作業は必須である。演出意図とそぐわない舞台美術で公演が成功することはまずない。

 演出家は、自分を取り巻く人々を挑発して、彼らが才能を最大限発揮するよう促す。そして出来上がったものを編集して、舞台が一環した主張を提示するようにする。公演のコンセプトが明確になるこの瞬間こそが、演出家個人の「刻印」が押される瞬間である。演出家は、作品を発見する旅を共にする仲間のリーダーである。旅がどこに向かって行くのか、メンバーも、彼自身でさえ、必ずしも分かっているわけではない。コンセプトを決めて稽古を初めてしまうと、創造を押さえつけ、発見を妨げてしまう。予想もしなかったことが起きるワクワク感こそが良い稽古なのである。

 演出家が決定したことはすべて、俳優も納得できなければならない。俳優は本番のたびに、確信をもって作品を新たに創造しなければならないからだ。演出家はガイドであり、哲学者であり、友人である。また共謀者であり、精神科医であり、役者であり、学者であり、音楽家であり、編集者であり、新興宗教のリーダーであり、政治家であり、恋人である。時には召使いでもある。様々な人々のニーズに応えるため、場面に応じて違うマスクを被らなければならない。嘘つきではいけないが、真実をすべて言ってもいけない。人の自信というものはあまりに脆く崩れやすいからだ。善き教師と同じように、慎重に養育しなければならない。そして善き親と同じように、愛情をもって安心させなければならない。演出家という仕事の権力は絶大で影響力が大きく、ともすれば誇大妄想に陥ったり、他人を操ることに快感を覚えたりしかねない。

 成功は一時的なものだ。ある公演が成功しても次がうまくいく保証はない。私は、成功のために仕事はしない。お金でも、観客のためでもない。批評家のためでもない。劇作家のためでさえない。もちろんハロルド・ピンターやサミュエル・ベケット、テネシー・ウイリアムズが演出を褒めてくれた時は嬉しかったし、達成感があった。しかし私がもっとも喜びを感じるのは、稽古の中で、グループ全体がインスピレーションを得る瞬間である。俳優も、演出家も、関係者全員がお互いから力を得て、一緒に作業をすることによってそれぞれがより良い人間になり、自分が思っていたよりも自分に感性があり、才能があると気づく。それはほとんどエクスタシーに近い感覚である。運が良ければ、一公演につき、2回か3回はそんな瞬間が訪れるのである。