今週から二期会「サロメ」の稽古が始まった。初演はウィリー・デッカーがハンブルク歌劇場で演出したプロダクションで、装置、衣装もハンブルクからのものを使用する。デッカー本人は稽古終盤に来日の予定で、今は演出補のシュテファン・ハインリッヒス氏が稽古をつけている。
サロメといえば、芳醇な音楽に合わせた豪華絢爛な舞台が多いのだが、この演出は視覚的にシンプルで無機質なところが特徴。なぜなら豪華絢爛な宮殿の世界こそはサロメが逃げ出したがっているものだから、というのが演出コンセプトの基本的な考え方。
アクションはすべて舞台全体に立て込まれる大きな階段で行われる。この階段は宮殿の外のテラスのような場所。おそらく、少女と大人の境にいるサロメ、恋や愛をこれから知ろうとしているサロメ、家族の中で居場所がないサロメの「中途」の状況も表したセットだと思われる。
中程に裂け目があって、この下にヨカナーンが囚われている。ヨカナーンは「崩壊を呼び込む者」ではなく「ヨカナーン自身が崩壊そのものである」とのこと。
装置も衣装もほとんど白〜グレーの濃淡で色がなく、ただ、月明かりだけが色を変えていく。月はどの文化でも、神秘的なものや、錯乱を呼び覚ますものを象徴するもの。作品中では月が繰り返し言及され、月の妖しさがサロメの不思議な魅力と重ね合わされている。
ところで、「月」という言葉はヨーロッパの多くの言語では女性名詞で、「太陽」が男性名詞なのに、なぜドイツ語では月が男性 “der Mond” で太陽が女性 “die Sonne” なのだろうか? 調べてみたところ、あくまで一説としてだが、面白い説を見つけた。
もともと古代ヨーロッパでは太陽神は女性だったが、文化が男性上位に変化していったのに伴い、太陽が男性と結びつけられるようになったというのである。女性性の地位を低下させるため、光の弱い月と女性を結びつけ、力と明るさのある太陽を男性と結びつけた。そのため、インド・ヨーロッパ言語の中でも比較的後に発達したラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語などでは太陽が男性名詞、月が女性名詞となっている一方、もっと古い言語(サンスクリット、ドイツ語、ゲール語)などでは逆なのだという。同様に、非常に古いバビロニア以前のスメリア言語では月は男性で、アラビア語でも太陽が女性なのだという。
キリスト教が入る前のヨーロッパでは女性性への崇拝がずっと強かった。豊穣の象徴である地母神が広く信仰されていて、それがのちに聖母マリア信仰にとって代わったのだと言われている。そのことも合わせて考えるととても興味深い。(http://www.lionpath.net/zwoelf.html)
さて、来月サロメについてのレクチャーをとあるところでしなければならないので、歴史上のサロメという人物がもともと聖書および古いユダヤの文献でどのように記されているかを自分の勉強として簡単にまとめておく。
サロメは新約聖書のマルコ伝とマタイ伝に登場するが、名前はなく、「ヘロディアスの娘」と記述されているだけである。
話の要旨はこのようなもの。ガラリヤの太守ヘロデ・アンティパスが異母兄ピリポの妻であったヘロディアスを後妻にめとる。そのことを非難したユダヤの預言者ヨハネを、ヘロデ・アンティパスは捕えて獄中につなぐ。ヘロデの誕生日の祝宴で、ヘロディアスの連れ子である娘が踊った舞が見事でヘロデや列席者たちを喜ばせたため、王は少女に「褒美に欲しいものはなんでもあげよう、国の半分でも」と言う。娘が席を外して「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母ヘロディアスは「ヨハネの首を」と答えた。少女は言われた通りに「ヨハネの首を盆に載せていただきたい」と願う。王は困ったが、立てた誓いを覆すわけにも行かず、ヨハネの首をはねさせて少女に渡し、少女はそれを母のところに持っていった。
聖書以前にサロメが登場する書物は、ユダヤの貴族出身の僧侶フラーウィウス・ヨーセーポスが書き残した20巻の「ユダヤ古代史」と7巻の「ユダヤ戦史」で、そこにヘロデ、ヘロディアス、サロメの出自が記録されている。
サロメの義理の父ヘロデは正式名をヘロデ・アンティパスと言って、先代のヘロデ大王の息子である。ガラリヤの司であったヘロデは、紀元前37年にローマ軍の援助により聖都を手中に納め、全ユダヤの王となった。福音書の中では、新たな王・救世主(キリスト)が誕生するという預言を怖れ、2歳以下の嬰児を全て屠殺させた暴君として知られている。ヘロデの悩みは出身が卑しいことだった(オペラ「サロメ」には、ヘロディアスがヘロデを「あなたの父親はラクダ挽きだった」と馬鹿にするセリフが出てくる)(オスカー・ワイルドの「サロメ」ではヘロデの祖父がラクダ挽きだったことになっている)
ヘロデ大王は全部で10人の王妃をめとり、王子8人と王女6人を設けた。王子3人は王により殺害されたが、王の没後、遺言に従い、ヘロデ・アーケラウス、ヘロデ・アンティパス、ヘロデ・ピリポの3人の王子に王国が分配された。この二番目の息子アンティパスが「サロメ」のヘロデである。
当時のローマ帝国皇帝アウグストゥスは、この息子たちに父親のように「王」を名乗る資格を与えず、全ユダヤの4分の1を治める領主という意味の「テトラルク」”Tetrarch”という呼び名で呼ばせることにした。
ヘロデ・アンティパスはアラビア・ペトラエアの王アレタスの娘と結婚していたが、ある時、異母兄ピリポをローマに訪ねた際、その妻のヘロディアスの美貌に心奪われた。ヘロディアスの方もアンティパスの権力と地位を手に入れたい野心があり、夫のピリポを捨て、娘サロメを連れてアンティパスの妻となった。
サロメという名前の女性は実はこの少女の前に存在する。ヘロデ大王の妹の名前がサロメと言って、嫉妬と野心に満ちた女性だった。大王の王妃マリアムネへの強烈な嫉妬があり、サロメの差し金によって、マリアムネの弟は溺死させられ、マリアムネ自身も殺害された。
オペラ「サロメ」のサロメは「ユダヤ古代史」でも聖書でも特に個性が際立った人物ではなかったのだが、ヘロデ王朝が野心と陰謀の血なまぐさい争いで彩られ、大王の妹サロメが同族の中で殺戮を重ねたため、サロメという名前が恐怖と共に記憶に刻まれたとのことである。ヘロディアスも強烈で野心的な性格だったため、「初代サロメ」と「王妃ヘロディアス」が腐敗したヘロデ王朝の悪を象徴する女性となり、後々の伝説が出来上がっていったと考えられるとのことである。
サロメのエピソードはローマ時代に尾ひれがついた形で伝承される。少女が初めて「サロメ」という名前で登場するのは5世紀の文献で、その後ファム・ファタルの代名詞として絵画や文学に登場するようになる。
ちなみにリヒャルト・シュトラウス研究家の広瀬大介氏は、オスカー・ワイルドの「サロメ」(=オペラのサロメ)でサロメが義父ヘロデのことを”Herr”などではなくわざわざ”Tetrarch”と呼びかけているのは、「王でないくせに威張るんじゃない」という子供らしい反抗心の表れ」と推測している。
井村君江「『サロメ』の変容:翻訳・舞台」新書館 1990年
広瀬大介「帝国のオペラ」河出ブックス 2016年