ロイヤルオペラハウス第1週目

 ロンドン・ロイヤルオペラハウス内にあるJette Parker Young Artists Programmeに研修員として参加して1週間が過ぎました。4ヶ月間ここでオペラ歌手養成全般について学ぶ予定です。

 

 私はオペラ歌手への効果的な演技指導方法を考案したいと考えていて、演劇の伝統としっかりしたメソッドのあるイギリスのオペラハウスの研修所ではどんな指導が行われているのかを見るために、ここで研修することにしました。オペラに関わる者はキャストもスタッフも音楽、語学、演技面、歴史など全てに通じていなければならないので、演技の授業だけでなく声楽のレッスンやコレペティによるレッスン、語学の授業、ムーヴメントの授業、すべてを見学する予定です。正規の研修生ではなく、「オペラ歌手の養成法について学ぶオブザーバー」という特殊な立場です。これから12月までは主にこちらでの様子を書いていきたいと思います。

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 Jette Parker Young Artists Programmeに所属する研修生は世界中から集まった若いオペラ歌手達で、2年間オペラハウスに所属し、給与を得て歌や演技の訓練を受けながら、オペラハウス本公演の端役に多数出演する。本役のカヴァーをすることも多く、本役が休めばいきなり大役でデビューのチャンスが巡ってくる。そのため、音大卒業直後ではなく、ある程度プロとして活動実績のある若手歌手を対象としている。研修中は他劇場でのオーディションも積極的に受けることが推奨され、オペラ歌手としてのキャリアの先鞭をつける期間と捉えられている。年に2回、研修生による公演もあり、歌劇場内のLinbury Studioという小さい劇場で上演される。私は10月の「絹のはしご」で演出助手をすることになっている。

 歌手以外に演出と音楽スタッフ(指揮者、コレペティ)の研修生もいる。彼らも本公演に助手として関わりながら、研修所公演の演出・指揮をする。

 ちょうど私が参加した9月1日は今年度の新しい研修生たちにとっても初日だったので、他の新入生たちと同じタイミングでスタートを切ることができた。

 

 研修生たちは毎日、オペラ歌手の仕事に必要な技術全般にわたる訓練を受ける。ヴォイスコーチによるヴォーカルテクニックのレッスン、コレペティによる歌のレッスンの他、語学、演技、ダンス、ムーヴメント、殺陣などのクラスがある。カウンセリングの資格を持つ声楽家によるメンタル面強化のセッションや、オーディション準備方法などのクラスもある。本公演の稽古に参加するためクラスには出ていない人もいる。

 ダンス、殺陣などは全員一緒に受講するグループセッションだが、それ以外は基本的に個人レッスンである。(語学、演技、ムーヴメントでさえも。)面白いのは、どんなレッスンを受けるかは本人による希望申告制だということである。たとえば「自分はイタリア語が弱いので強化したい」と思えば、申告してイタリア語のレッスンをアレンジしてもらう。「今度このオペラにこの役で出演するから準備をしたい」ということであれば、本人の判断で、歌のレッスンに加えてその役に必要な言語、演技の授業などを受けられるようになっている。研修生の中にはイギリスの音大出身で演技には自信のある人もいれば正式に演技の勉強をしたことがない人もおり、各分野のスキルはまちまちなので、本人の必要性に応じてカリキュラムが組まれる。アジア人で英語の個人授業を受けている人もいるし、近々リサイタルでスウェーデン語の歌曲を歌うからということでスウェーデン語の授業を受ける人もいる。なんとも贅沢なサポート体制である。

 私は演技関連の授業を中心に参加しているが、空いた時間にはコレペティのレッスンや語学クラスも見学させてもらっている。

 今週受講したクラスの中で印象的なものをいくつか。

 

殺陣 (stage fighting)

 女性ファイティング・ディレクターAlison de Burghによる1時間半のセッション。彼女はイギリスで初の女性ファイティング・ディレクターだそうである。(女性のファイティングコーチは今までも存在したが、ディレクターは初とのこと。コーチは教えるだけだが、ディレクターは実際に公演で殺陣が出て来るシーンの振り付けをする。)

 舞台でよく出て来る、基本的な「相手を叩く」「殴る」動作と、それを受ける側の動き(non-contact、つまり実際に相手に触れることなしに相手を殴っているように見せるテクニック)を、2人組になって練習する。人間の身体の動きの理論も説明してくれながら進むのでとても勉強になる。その後、「床に倒れる」動きのバリエーションをいくつか。いかに安全面を確保するか、相手に怪我をさせず自分も怪我をせずにリアリスティックな動きをやるか、ということが強調される。また、稽古中に演出家から無茶で危険な要求をされた際に、いかにお互いの立場を守りながら問題を回避するか、といった話も出た。

 イギリスでは小さな殺陣のシーンでもファイティング・ディレクターが呼ばれるのが普通だが、最近は予算削減で殺陣シーンの稽古に十分な時間が取れないこともあるので、オペラ歌手も基本的な殺陣のテクニックは是非とも身につけておいて欲しい、とのことだった。

 

 

演技 (stagecraft)

 演出家John Ramsterによる個人レッスンで、近々歌う予定の役を準備するためのクラス。研修所公演「絹のはしご」の役を持ってくる人、また本公演の端役の準備をする人もいる。講師は演出活動の傍らRoyal Academy of Musicほか様々な養成期間で教えた実績がある。

 この授業は演出家とコレペティが共同で一人の歌手をコーチングする。テキストの読み方、役の作り方、解釈の仕方などを話し合うところから始めて、スコアの頭から実際に歌ってみて、それに対して動き方などを演出家がアドバイス。同時にコレペティが音楽面のアドバイスをする。

 役作りに関してはこの演出家はイギリスの舞台人らしいアプローチをとる。すなわち、テキストを分析して「この人物は何歳か、どこで生まれたのか、どんな毎日を過ごしているのか、何が好きか、どんな問題を抱えているのか」といったデータを踏まえて役作りをしなさい、というスタニスラフスキー的手法である。(イギリスの演劇では、舞台に出てくる前にその人物の背景、置かれている状況を詳細に把握する点が徹底している。)しかし素晴らしいのは、さすがオペラの演出家なのでスコアに精通していて、音楽面にも配慮が行き届いていることだ。また語学も複数言語に堪能なようで、「このセンテンスはこの文法だから、こういう要求をしている」といった指摘ができる。一方、コレペティも音楽だけでなくドラマの動きに敏感である。音楽の知識の深い演出家と、ドラマに敏感な音楽家が共同で作業をする。これこそオペラの理想形だと思う。

 

 

 今週もうひとつの演技の授業は演出家John Copleyによるグループセッション。

 John Copleyはヨーロッパ各地の歌劇場で1960年代から活躍してきた大御所の演出家で現在81歳。彼のコヴェントガーデンの「ボエーム」は1974年から現在にいたるまでレパートリー上演されている。(今シーズンを最後についに新演出に変わるらしいが。)ヴィスコンティの助手から始めて、パヴァロッティのデビューに立ち会ったり、風邪をひいたマリア・カラスの代わりに舞台稽古に立ったり、戦後のあらゆるスターたちと共に仕事をしてきた、オペラ界の生き字引のような人である。「最近のオペラは様変わりしてしまったから、僕には君たちにしてあげられることは何もないよ」と卑下してみせながら、メガネの奥の眼光は鋭い。

 彼の「授業」は結局、2時間たっぷり彼の舞台人生において出くわした様々なエピソード、逸話を拝聴する時間だった。出て来た名前は、ちょっと挙げるだけでも、ドミンゴ、サザーランド、リッチャレッリ、ディ・ステファノ…。コヴェントガーデンでデビューした頃の若き無名のパヴァロッティは、舞台スタッフや共演者と仲良くなるために毎晩パスタを作って振る舞っていたそうだ。舞台で起きたアクシデントや、誰がいつどんな事を言ったという話など、イギリス人特有のユーモアとジョークを交えて次々と語る話は面白すぎて、一同爆笑の連続。

 さんざん笑い転げていたら、終盤になって急に私を指し「君は演出をやりたいんだったらジョークを言えないとだめだよ。場を和ませるのに必要だから。今私が語ったジョークをみんなの前で日本語で語ってみなさい」 な、ナニ、この無茶ぶり?! 仕方がないのでやってみせたら、彼が話した直後だったので日本語でもよく通じたらしく、みんな面白そうに聴いてくれた(笑)

 授業の後で、ある研修生が言った。「彼の話を『年寄りの昔話』ってバカにすることもできる、でもそうじゃない。あんなに貴重な話はそうそう聴けない」本当にその通りだと私も思った。若い舞台人に必要なのは技術だけではない。メンターが必要なのだ。これから自分がやっていく世界がいったいどんな世界なのか、垣間見せてくれる大先輩はきっと心強い存在に違いない。