立ち稽古2週目:役柄を深める

 

 立ち稽古2週目。

 稽古場には、指揮者と演出家以外のコーチとしては言語指導、ファイティング・ディレクター、ムーヴメント・ディレクターが定期的に来ている。

 この公演には殺陣のシーンはないが、高低の差のある装置でのちょっとしたフィジカルアクションが発生するため、ファイティング・ディレクターがその部分の指導をした。日本だったら多分わざわざ殺陣の指導者を呼ばずに舞台監督の指示で行う程度のアクションだが、専門家に見てもらうことで安全性を確保するのが目的のようだ。

 演出家の方針で、稽古の初めには毎回そのフィジカルアクションを安全に行うためのウォームアップをしている。全体的にイギリスは「安全面に気をつけ、怪我を避ける」ことについてはかなり重要視されていると感じる。確かに、怪我をして公演に出られなくなったら元も子もないのだから大事なことだ。日本でも安全面の意識は高くなっていると思うけれど、精神論で押しきってしまうケースもまだまだあるので、こういう姿勢は学びたいと思う。専門の指導者を呼ぶ予算がなくても、ウォームアップを義務づけることならできる。

 ムーヴメント・ディレクターは、演出家がつけた演出に沿って、歌手がより効果的に動くための具体的なアドバイスをしている。今回の衣装はピリオド(18世紀)なので、その衣装に合ったような動きの指導。

 「この時代の衣装は手首にヒラヒラとレースがついているでしょう。だから手首を意識的に使って。しなやかに、手首で誘惑するように、仰向けにしたり、下に向けたりしてみて」

 しばらくこの動きをした後に音付きでシーンをやってみると、誘惑をする場なのにちょっと吠えぎみな歌い方をしていた歌手が、発声まで柔和にしなやかになって驚いた。

 ヨーロッパ人だからといって誰でも18世紀のお辞儀などを美しく出来るわけではなく、今回のキャストでもお辞儀がぎこちない人もいる。時代に合った所作や、その背景にある思考を知っておくのはとても大事だと思う。私はこちらにいる間に時代所作も個人的に学んで帰りたいと思っている。

 ムーヴメント・ディレクターといっても基本の素養はダンスで、様々なジャンルのダンスの訓練を積んだ人がやることが多いようだ。日本でも振付家がダンス以外の場面について動きの指導をすることがあるが、効果的な身体の使い方を知っているので出演者にとっても演出家にとっても心強い存在である。

 

 

 

 ある日、2人のシーンを稽古する予定だったのが1人が風邪で休んだため、1人きりの稽古になってしまった。演出家はその機会を利用して、そのソプラノ歌手の役柄を深めるエクササイズを行った。

 装置はその人物の部屋という設定なので、彼女は完全にその部屋を「支配」していなければならない。その日までの段階では彼女はまだ基本的な立ちは身に付いているものの、空間を支配するまでには至っていなかった。

 「誰かと喧嘩して怒り心頭、癇癪を起こしているという設定で、この部屋で思うように暴れてみて。部屋にある物を使って、何をしてもいいから」

 彼女は設定に入り込んで、布をひっぺがす、物を投げ倒す、叩き付ける。身を投げ出す。

 このエチュードを繰り返しやるうちに、自分がこの空間の支配者だという感覚が身に付いてきたようだ。

 その後、普通のシーン稽古を再開してみると、彼女は目に見えて身体の動きが自由になった。良い意味での子供っぽさ、茶目っ気が出て来て、相手を誘惑したり操ったりする動きや表情がいきいきしてきた。

 役柄の原動力となっている「核」が何なのか。そこを突き止めて開発するというのが演出家の意図だったと思う。

 

 普通の稽古と平行してこういうエクササイズをやることはとても有効だと思う。ただし日本の場合は、歌手がインプロでエクササイズをやること自体に慣れていない。実際、ヨーロッパの演出家が日本でオペラを演出した際に稽古場でインプロをやったら、歌手が照れてしまってなかなか進まなかった場面に私も出くわしたことがある。演劇では日本でも普通にやっていて、俳優はインプロに抵抗があるどころか、むしろこういうエクササイズを通じて自分を解放したがる。歌手も表現者だからそういう欲求は絶対にあるはずで、ただ、基礎の訓練が楽譜と発声のテクニックに集中しているせいで機会がなかなかないのと、文化的な羞恥心で抑えられているだけだと思う。若い時から音大などで、演技の前の段階の「抑制を外す」ことに慣れる機会をたくさん作ったら良いのではないだろうか?