ロレンツォ・ダ・ポンテの数奇な生涯 4

以前の記事に当時のアメリカではオペラなど上演されたこともなかったと書いたが、それはちょっと不正確で、この伝記によると実際には18世紀半ばからニューヨークでもオペラ「もどき」は上演されていた。オペラの筋書きを大幅にぶった切って英語にしたものや、戯曲に歌を挿入したミュージカルコメディのようなもので、劇団の事情やお客の人気度合いによってアレンジされていた。

 

そこへ1825年、イタリアのオペラカンパニーが初めてアメリカツアーを行うことになった。マヌエル・ガルシアというスペインの有名なテノールが中心となって、ニューヨークのパークシアターで本格的な公演をすることになったのである。プログラムはロッシーニ5本。(ヨーロッパのオペラシーンでは、時代はロッシーニに移り変わっていた。)「セヴィリアの理髪師」「タンクレーディ」「イタリアのトルコ人」「チェネレントラ」「オテッロ」だった。それに加えて、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」も上演された。ついに自分のオペラがアメリカで上演される —–  ダ・ポンテはどんなに興奮したことだろう。

 

…と言っても実は、「ドン・ジョヴァンニ」をプログラムにねじ込んだのはダ・ポンテ自身だったらしい。公演を見に行き、その足で楽屋にガルシアを訪ねて「ドン・ジョヴァンニ」の上演を提案したらしいのである。「ドン・ジョヴァンニ」は成功で、3回上演された。ダ・ポンテはこのチャンスを捉えて「ドン・ジョヴァンニ」のリブレットを英訳付きで出版もした。これは劇場や地元の本屋で販売されて、膨大な数が売れた(とダ・ポンテは回想録の中で主張している。)

 

ニューヨーク発の本格オペラ公演は話題となり、新聞で特集も組まれたが、完全にアメリカ人の観客の心をつかむには至らずに10ヶ月で幕を下ろした。

 

ダ・ポンテはガルシアの公演に力を得て、なんとかニューヨークにオペラを根付かせようと(そしてあわよくば台本作家としての名声をアメリカでも復活させようと)考えた。そこでまず、イタリアでオペラ歌手として活動を始めようとしていた自分の若い姪をニューヨークに呼び寄せ、デビューさせながらオペラの事業を発展させる計画を立てた。ところが大変な苦労の末に呼び寄せた姪は歌の才能も、オペラ歌手としての意志も期待ほどではなく、ダ・ポンテが企画した公演は失敗だった上、姪は2年ほどで結婚して帰国してしまった。後には、関係者を呼び寄せるのにかかった旅費や劇場への支払いなど膨大な借金だけが残った。

 

だが一度火のついた野心は衰えず、1832年、モントレゾールというテノールが率いるイタリア人歌手のカンパニーを呼び寄せた。ダ・ポンテは自分が台本を書いたモーツァルト、サリエリ、マルティン・イ・ソレールの作品を上演するよう要求した。ところが今回も、上演されたのはロッシーニの2本とベッリーニ1本、それにメルカダンテ(当時もてはやされていた作曲家)の1本で、ダ・ポンテの作品は1本も入れてもらえなかった。時代は完全にベルカントに移っていたばかりでなく、ダ・ポンテの作品はすべてフランス革命以前のアンシャン・レジームの代物で、アメリカの進歩的な空気に馴染まないと判断されてしまったのである。しかもモントレゾールの公演は興行的にも失敗で、再び借金の山を抱え込み、ダ・ポンテは自分の書店の本を売って赤字を清算しなければならなかった。

 

しかし!ダ・ポンテはまだ諦めなかった —— なんともう82歳になっていたのだが —— 今度は、アメリカ初のオペラハウスをニューヨークに建設しようと考えた。財界の支援を取り付けて、イタリアから劇場建設の職人も呼び寄せ、それまでアメリカには存在しなかったヨーロッパ風の豪華で美しい劇場が出来上がった。アメリカではこれまた初のボックス席も設けられ、1シーズン6千ドルで売り出された。1833年、ダ・ポンテと友人一人の経営のもと劇場はオープンした。シーズンは6ヶ月続き、公演は60回ほど行われた。しかし基本的な経営基盤が絶望的に弱く、事業は間もなく売却された。1836年にオペラハウスはナショナルシアターと改名され、その3年後には火事にあって消失してしまった。

 

ニューヨーク初のオペラハウスが失敗に終わったのは、上演がすべてイタリア語でアメリカ人には筋さえもよく分からなかったことと、オペラハウスでオペラを楽しむカルチャー自体が旧世紀のものであり、ボックス席のような貴族と平民を分け隔てるシステムが自由の国アメリカに馴染まなかったことが大きかったようである。

 

こうしてダ・ポンテの壮大な計画はすべて中途半端か失敗に終わった。彼のやることはタイミングがことごとくずれていた。彼は晩年、友人の紹介でコロンビア大学の教授にも就任しているのだが、生徒がほとんどいないいわゆる名誉職だった。イタリア書店の経営も続けていたが、こちらも閑古鳥で寂しい状態だった。


彼はイタリアの友達に宛てた手紙で嘆いた。「この私が、アメリカにおけるイタリア語の創造主である私が! この私、ヨーゼフ2世のお抱え詩人だった私、36本の台本を書き、あのモーツァルトにインスピレーションを与えた私が! 27年間身を粉にして働いたあげくに、生徒の一人もいないとは! 90歳を目前にして、アメリカでは毎日のパンにも困る有様なのだ!」 これは大げさだった。妻のナンシーは亡くなっていたが、彼は自分の子供に引き取られてちゃんと面倒を見てもらって快適に暮らしていた。彼が晩年に書いた回想録も、あちこち誇張が多くて事実が相当に歪められているとの判断がその後の研究により下されてしまっている。

 

1838年8月17日、89歳で死去。お騒がせ者ではあっても愛すべき人物だった彼の葬儀には大勢の友人が集まった。遺体はニューヨークの墓地に埋葬されたが、その後何度か墓を移されるうちに場所がわからなくなってしまった。死後100年近く経って、モーツァルトの人気の高まりと共にダ・ポンテの名前も注目されるようになって来た頃には、研究者が探しまわっても墓地の在処は見つからなかった。

 

なんと完璧なアンチ・クライマックス! モーツァルトが死んだ後、ダ・ポンテがひたすら渇望し、追い求めた栄光は、ついに得られなかった… 生前には。今ではオペラ好きな人なら誰だってダ・ポンテの名前は知っている。でも彼がこんなに可笑しくて切ない波乱の生涯を送ったことはそんなに知られていない。才気煥発、うぬぼれ屋で、自己顕示欲が強く、批判に弱く、自己防御が激しく、感激屋で、お人好しで、女に弱く、騙されやすく、ペン先は器用でも生き方は超不器用。でも諦めるということを知らず、激動の人生を不屈の精神で生き抜いた。

 

Sheila Hodgesの伝記の最後に抜粋されている、彼の回想録からの一文は泣ける。こちらを訳して終わりにします。

 

「どうやら私の心臓はほかの人間とは違う素材で出来ているようだ。高貴な行為や、心の広い人、善良な人に私は目をくらまされるのだ。私はまるで、栄光への渇望に突き動かされ、大砲の砲口に突撃する兵隊のようだ。自分をさいなむ女性の腕の中にわざわざ飛び込もうとする、恋する男のようだ。死後に自分の名前を不滅のものにしたいという願い…(中略)…私のペンによって汚されたとは言えない芸術を信奉する人々から賞賛や感謝を受ける時の甘い興奮、私がアメリカにもたらした美しい言語への愛を育てたいという願望、我々の魅惑的な音楽への愛を育てたいという願望、若かりし私のインスピレーションが生んだ子供達…テムス川やダヌーブ川やエルベ川の劇場では今でも記憶されている子供達…とアメリカの舞台で再び出会いたいという願い、そして最後に、自分が高潔な行為を行い約束をきちんと守ることによって、整った公演が成功裏に行われることがもたらす甘い喜び、勇気、栄誉。こういったものが、これまでの喜ばしい事業へ駆り立てられる原動力になってきたし、これまで何事も私を妨げることはできなかった。私はバラや月桂樹の冠を夢見た。しかしバラがくれたのはトゲだけ、月桂樹がくれたのは苦さだけ! 世界とはこんなものだ!」

 

参考文献

Sheila Hodges, Lorenzo Da Ponte: The Life and Times of Mozart’s Librettist, Granada Publishing, 1985.

“Nights at the Opera: Librettist Lorenzo Da Ponte,” The New Yorker, January 8, 2007.

田之倉稔「モーツァルトの台本作者:ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯」平凡社 2010年