ロレンツォ・ダ・ポンテの数奇な生涯 3

 1805年、長く辛い船旅の末にダ・ポンテはアメリカに着き(船旅の間にカードゲームに所持金をつぎ込んで無一文になりながら)、妻のナンシーを探し当ててニューヨークで生活を始めた。

 

当時のニューヨークにはまともな劇場さえ存在しなかったから、ダ・ポンテが文筆業で生きていくのは無理な話で、生活のためには何でもしないといけなかった。ナンシーの親族たちはフィラデルフィアで土地投機と貿易業を営んで成功していた。ダ・ポンテは彼らのつてで、ナンシーの貯金を元手に雑貨商を始めた。最初の10年ほどはニューヨーク、ニュージャージー、フィラデルフィアなどを転々としながら、小麦、蒸留酒、医薬品、香辛料などを売る商売をした。

 

ダ・ポンテがニュージャージー州に住んでいた…というくだりを読んだ時は思わず笑ってしまった。ニュージャージーは私が中学高校の時に住んでいた所なのだが、「ダ・ポンテとニュージャージー」は「モーツァルトとテキサス」くらいに似合わない。ロココの優美な世界からやってきたダ・ポンテがアメリカの広大な森の中にぽつねんと立ち尽くす姿を想像すると、それだけで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のワンシーンになりそうである。

 

ダ・ポンテ自身、回想録の中で言っている。「まともな人間なら誰でも想像がつくと思うが、詩しか書いたことのなかった私のこの手が、紅茶2オンスを量ったり、道路職人にタバコ半ヤードを測って売ってあげたりするたびに自分でも笑わずにいられなかった。」当然ながら彼は商売には全く向いていなかった。無理な投資をしたり、詐欺に遭ったりで、妻の蓄えも最初の1年で使い果たしてしまった。(彼は生涯の間に、小金を作っては一文無しになる、を何度も繰り返している)

 

そのうちダ・ポンテとナンシーの家族たちとの仲はすっかり冷え込んでしまった。ナンシーの家族たちはダ・ポンテを相当冷遇したようで、ダ・ポンテは回想録の中でナンシーの親族たちを苦々しく責め立てているらしいのだが、客観的に見るとまともなのはナンシーの家族のほうであって、次々と無謀なビジネスに手を出しては大失敗するダ・ポンテに呆れ果てていたに違いない。

 

彼も自分の商才の無さに気づいて、違う目標を立てることにした。この未開の新世界に崇高なイタリア文学を紹介する最初の人間となる、という使命に目覚めたのだ。当時、アメリカに住んでいたイタリア人はごく少数で(イタリアから移民が押し寄せるようになるのは19世紀後半以降のこと)、イタリアの豊かな芸術文化については全く知られていなかった。友人のつてで数人の有望な若者たちを相手にイタリア語とイタリア文学を教える教室を始めた。それはやがて「マンハッタン・アカデミー・フォー・ヤング・ジェントルマン」「マンハッタン・アカデミー・フォー・ヤング・レディーズ」という名の、若い男女に教養とマナーを授ける学校に発展し、ナンシーと一緒にフランス語、イタリア語、ラテン語、音楽などを教えるようになった。

 

実はダ・ポンテは若い頃イタリアで教師をしていた時期があり、教えることが得意で、とても有能な先生だった。彼のイタリア文学の膨大な知識は本物だったし、何よりイタリア文学を心から愛していた。ペトラルカ、ボッカッチオ、ダンテ、アリオスト、タッソー… 授業の内外で彼は生徒たちと熱心に議論を交わした。

当時の彼の貢献が歴史的にも重要な意義があったことを、ダ・ポンテの研究家アーサー・リビングストンはこのように書いている。「(ダ・ポンテの教師としての活動が)当時のアメリカ人の意識向上にとって大事な出来事だったことは疑いの余地がない。アメリカの重要な人間たちの心に、ヨーロッパ全般についてや、詩、絵画、音楽、芸術的精神、古典、創造的な古典教育を生き生きと植え付けた人間は、ダ・ポンテ以前にはいなかった。…(中略)…ダ・ポンテの死から100年も経った今になって、私はニューヨークの住民から、自分の祖母や母がダ・ポンテという人の元で勉強していたと自慢話をされたことが三度もある」

実際、彼の生徒の中からはその後、イタリア文学の専門家ではなくても、数学者や哲学者として名門大学の教授になった人々が何人もいた。

 

新世界にイタリア文学の素晴らしさを広めたいというダ・ポンテの情熱が本物だったことは間違いない。ただし彼の行為は常に「それによって自分の名を歴史に残したい」という自己顕示欲とセットになっていて、そこが失敗の元なのである…。

せっかく学校が軌道に乗り始めたのに、彼はまた詐欺に引っかかって事業資金を失い、学校を閉じ、ペンシルベニアの田舎で商売をするようになった。しかしそれもうまくいかずに1819年以降はニューヨークに完全に移り住み、残りの生涯をイタリアの本屋を経営しながらイタリア語教師として生計を立てることになる。ニューヨークの本屋にはイタリア語の本は一冊もなかったので、まず自力で本をイタリアから輸入するところから始めなければならなかった。自分こそが、新世界アメリカにおいてイタリア文学の伝道者となること、これが彼の野望であった。

 

やがて1825年、イタリアから初のオペラ・カンパニーがニューヨークに来てツアー公演を行うというニュースが入ってきた。オペラ台本作家としてのダ・ポンテを誰も知らないアメリカで、ついに自分が何者かを知ってもらうチャンスが訪れたのである。

 

…続く…

 

(抜粋文はすべてSheila Hodges著The Life and TImes of Mozart’s Librettistからの和訳です)