ロレンツォ・ダ・ポンテの数奇な生涯 2

ダ・ポンテの最初の記事はかなり大雑把に書いてしまったので、ロンドン時代に戻ってもう少し丁寧に追っていきたいと思います。なにしろこの人、キャラとして本当に面白いので…。

 

短命だったモーツァルトとは対照的に、ダ・ポンテは当時としては驚異的な89歳まで生きた。しかし人気台本作家の地位から転落してウィーンを追放になったのちは2度と再び栄光の水とゴクゴク飲み干すことはできなかった。彼のウィーン時代後の行動すべては「あの栄光の日々をもう一度」という切なる願いに突き動かされた故とも言えるのだが、彼が人生の最後まで渇望し続けた名声は、ごくたまに、お情けのようにチョロチョロと与えられるだけだったのである。

 

 

ウィーンを追われ、ロンドンでキングス・シアターという当時のオペラ劇場の台本作家となったダ・ポンテはそれなりに忙しく活躍した。ただし仕事の大半は既存のオペラ台本の焼き直しで(チマローザの「秘密の結婚」の翻案など)、「かのダ・ポンテ」として仕事を依頼されたというよりは器用な便利屋として重宝された感が強い。大陸に一歩遅れをとっていたイギリスではモーツァルトのオペラ作品はまだ一本も上演されていなかったし、ダ・ポンテが手がけた作品といえばウィーンで大ヒットしたマルティン・イ・ソレール作曲のUna cosa raraがかろうじて1789年に一度上演されていたくらいだった。

 ロンドンに来る前に結婚した妻ナンシーは献身的な働き者で、家計を助けるため劇場そばのコーヒーショップを経営してかなりの収益をあげていた。ダ・ポンテも作家業の傍ら、本屋を経営したりもした。

 

まあまあ順調に仕事をこなしていたダ・ポンテがロンドンをも逃げ出さねばならなくなったのは、当時ロンドンで一般的だった連帯保証人のような慣習をよく知らず仕事仲間の手形にサインをしてしまっていたためである。ロンドンに来る前に友人のカサノヴァに「ロンドンでは書類にはサインをするな」と忠告されていたのをすっかり忘れていた。ここでもダ・ポンテは才能ではなくて、人を信じやすい軽はずみな性格に足を取られてしまったのだ。他人の借金を背負う形になり、借金取りに追われて度々牢獄にまで入れられるハメになった。

 

妻のナンシーはそれより少し前、自分の親類を頼って、子供を連れてアメリカに移住していた。離婚したわけではなかったが、浮き沈みの激しい夫との生活に耐えきれなくなったのか、とにかく別居して距離を置こうとしたようである。ダ・ポンテは一人の生活が寂しかったこともあり、1805年、自分も妻を追ってアメリカに渡ることにした。

 

 

ダ・ポンテはこうして、才能と業績をちゃんと認識してもらう機会がないままにロンドンも後にすることになった。14年間の滞在中にモーツァルトの三大喜劇が上演されることはなかったし、Una cosa raraが再演されたのもダ・ポンテが去った後だった。

 やがてイギリスでもモーツァルトのオペラが徐々に知られるようになり、人気が出てきた。1806年に「ティートの慈悲」と「魔笛」、1811年に「コジ・ファン・トゥッテ」、1812年に「フィガロの結婚」、1817年に「ドン・ジョヴァンニ」が初演される。しかしその頃にはダ・ポンテは遠く新大陸の人となってしまっていた。そのままロンドンにいることが出来さえすれば、名声に浴することもできたはずなのに…。

 

ちなみに盟友マルティン・イ・ソレールはロンドンにやって来て、一時期ダ・ポンテの家に滞在していた。ところがダ・ポンテの自伝によれば、劇場のプリマドンナと愛人関係になったばかりでなく、ダ・ポンテの家に女中にも手を出して妊娠させた上にダ・ポンテに濡れ衣を着せるなどゴタゴタを起こして、ダ・ポンテとの関係はすっかり冷え込んでしまった。ダ・ポンテは生涯を通じて友人も敵も多く、かつての心を開いた仲間と敵同士になってしまうパターンも多かったようである。

 

ダ・ポンテの自伝の中に、キングス・シアターでトップの座を争っていたモリケッリとバンティという二人のプリマドンナを描写したくだりがある。(これこそモーツァルトの「劇場支配人」を彷彿とさせる。)これを読むとさすがダ・ポンテ、人間観察力が鋭く、辛辣で、観察したものを言葉巧みに表していて、この観察眼がオペラの台本執筆にそのまま発揮されているんだなあと思う。ただこの洞察力を自分の人生にももう少し有効に使っていれば、周りの人々に騙され続けることもなかったのだが…。

 

 

「(このソプラノ二人は)声がよく似ており、情熱的なこと、腹黒いところも似ていた。しかし性格は全く違っていて、自分の目的を達成させるために選ぶ手段には大きな隔たりがあった。頭脳派で洗練されたモリケッリは、自分の陰謀を抜け目ない謎のヴェールに包み隠す、老いたオオカミだった。彼女はつねに一歩離れたところから敵をあやつった。誰も信用せず、かんしゃくを起こすことなど決してなかった。肉感的なお楽しみが大好きなくせに、人前ではまるで15歳の処女のように慎ましくおしとやかに振る舞った。心の奥底に煮えたぎらせた策略が邪悪であればあるほど、優しく蜜のように甘い笑顔を見せた。彼女がどんな事柄に情熱を燃やしたかは言葉にするまでもないであろう。彼女は何より劇場の人間であったから、当然ながら劇場の人間が敬う神、すなわちプライド、嫉妬、利己心といったものを信奉していたわけだが、その度合いが極端なのである。

一方、バンティは無知で頭が悪くて横柄な女性だった。若い頃にカフェや道端で歌っていた頃の習性をそのまま劇場に持ち込んだため(劇場に持ち込んだ歌手としての資質はその声以外に何もないのだが)、癖も、マナーも、習性も、全く矯正されないままだった。好き勝手に物を言い、さらに好き勝手に振る舞い、酒乱の気があり、見た目そのままの女性であって、節度とか自己抑制とはおよそ無縁である。困難な状況や反対勢力に出くわした日には、たちまち怪物、地獄の鬼と化し、その勢いは劇場一軒のみならず帝国の一つもなぎ倒さんばかりであった。」(Sheila Hodges The Life and Times of Mozart’s Librettist より自伝の抜粋部分を和訳しました)

 

次回はアメリカに移ります。