シェイクスピアの全戯曲37本読破に去年から取り組んでいて、先日ようやく読了した。知っている作品も全て最初から読み直したので時間がかかり、特にマイナーな作品は正直すでにストーリーを思い出せないものもある。でもオペラの原作になるような作品はやはり凄い。
ヴェルディ「ファルスタッフ」はシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」が原作だが、ファルスタッフの人物像に深みを持たせるために、同一人物が出て来る「ヘンリー4世」からもかなり要素が取り入れられている。戯曲は順番としては「ウィンザー」よりも「ヘンリー4世」が先に書かれており、こちらのファルスタッフ(英語ではフォルスタッフ)のほうが「ウィンザー」のフォルスタッフよりキャラクターとして圧倒的に魅力的である。
「ヘンリー4世」で脇役だったフォルスタッフがあまりに人気が出たので、フォルスタッフを主人公にしてシェイクスピアが書いたのが「ウィンザーの陽気な女房たち」で、いわば「魔笛」のパパゲーノを主人公にしてスピンオフを作ってしまったようなものだが、パパゲーノにしろフォルスタッフにしろ、こういうおちゃらけキャラは高貴な主人公の脇でウロチョロしていてこそ面白いので、「ウィンザー」で主役となったフォルスタッフは毒気が薄められて中途半端になってしまった。
それをよく分かっていたヴェルディとボーイトは、オペラを作るにあたって、「ヘンリー4世」からファルスタッフの「大食漢・ならず者・お調子者」な人格が見えるエピソードを巧みに取り入れて、主人公を新たに練り直した。
「ヘンリー4世」では、フォルスタッフは皇太子ハルの悪友である。ハルは王子にもかかわらず、下級騎士フォルスタッフ他ごろつき達とつるんで飲んだくれたり盗賊まがいのことをしたり、放蕩に明け暮れている。
「ヘンリー4世」で私が一番好きなのは、王の軍と反乱軍の戦争の真っ最中、戦いたくないフォルスタッフが死んだフリをするシーン。敵方の伯爵と一騎打ちになるのだが、フォルスタッフはすぐに地面に倒れ、相手が死んだと思った伯爵は退場する。他の人物たちが戦闘場面にふさわしく華麗で勇ましいセリフを次々と繰り出す中、この部分はたった2行のト書きでさらっと描写されているだけなのが笑える。
実はこのシーンでは同時に、隣でハル王子と敵陣のヒーロー、ホットスパーが激突している。ハルもホットスパーも若くて血気盛んで、どちらに肩入れしていいか分からないくらい魅力的なキャラクターである。結果はハルがホットスパーを倒し、その瞬間、ハルが次世代の王となって国を背負って立つことが決定する。この戦争を通じてハルは国のリーダーとしての自覚と責任感に目覚める。
ここがシェイクスピアの凄いところだ。作品中のクライマックスである壮絶なヒーロー対決のすぐ脇で、フォルスタッフが死んだフリをして息を殺している。国の行方を決める勝負に命を懸けて臨む若者二人。その隣に、名誉なんかいらない、ズルしても何しても生き延びればいいやという男。どちらの生き方が正義なのか、正義と言えるのか。
この手法はシェイクスピアの他の作品にも時々出て来る。見事に美しい長台詞があって、それがシェイクスピア自身の信条なのかと思いきや、すぐ後に別の人物がその台詞をくじくような事を言ったりやったりする。読んでいる方は決まった誰かに陶酔することなく、客観的立場に居さされる。
ちなみにヴェルディ「ファルスタッフ」1幕1場の有名な「名誉だと!」という歌(名誉で腹がいっぱいになるか、と、名誉の無意味さを豪語する歌)の歌詞は、ちょうど「ヘンリー4世」のこの戦闘シーンの直前部分から引用されている。いやいや戦場にやってきて、敵との闘いを目前にしてファルスタッフは自問自答する。「いざとなりゃあ名誉がおれを突き進ませてくれるだろう。いや待てよ、いざとなって、名誉のおかげでおれが突き刺されでもしたらどうなる? そうなったら、名誉が足を元通りにしてくれるか? まさか。腕は? だめだ。傷の痛みを取ってくれるか? これもだめだ。…名誉ってなんだ? ことばだ。その名誉ってことばに何がある? 空気だ。…名誉なんて墓石の紋章にすぎん。以上でおれの協議問答はおしまいだ」(小田島雄志訳「ヘンリー4世」より) オペラでファルスタッフが宣言する人生の信条は、生きるか死ぬかの瀬戸際で彼が割り出した信条なのである。