偉大な演出家サー・ピーター・ホールが亡くなった。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの創設者で、不条理劇のエポック的作品「ゴドーを待ちながら」やハロルド・ピンターの数々の戯曲を初演した人で、ナショナルシアター、グラインドボーン音楽祭の芸術監督を歴任。
20代初め頃「フィガロの結婚」を勉強していた時、色々観た映像の中に、グラインドボーン音楽祭の「フィガロの結婚」(1973年)があった。小さいシンプルな舞台だったが歌手が生き生きしていて、それまで私がたまに不熱心に観ていたMETなどの大掛かりで退屈なオペラとは違う、小劇場的なライブ感覚に魅了された。ミュージカルばかり観ていた私がオペラに本気になったのはその映像がきっかけだったと思う。ただ私はその頃アマチュアの歌い手だったので演出よりも歌手に興味があり、イレアナ・コトルバシュのスザンナが可愛くて気に入っていた。ずっと後になって、あの闊達な舞台の演出はピーター・ホールだったと知って合点がいった。
その後彼の作品を何本観たかわからないが、彼の演出は正当派で、ごく真っ当でありながら、常に血が通っていて、作品の中の様々な「なぜ」に必ず答えを出していると感じた。一番いい意味でイギリスらしい舞台を代表する演出家だったと思う。
2004年、東京で行われたピーター・ホールの講演会を聴きに行った。その時私はまだ演出をまともにやったこともなかったから、彼の言っていることを本当には理解できていなかったと思う。ただ話を聴いていると舞台芸術の本質に触れているという感覚があり、言いようのない感動を覚えた。
この時会場で買った著書 “Exposed by the Mask”(「仮面によって露わになる」)にはモーツァルトのアンサンブルのやり方についての章があり、何度も読み返した(長くなるのでまた今度、部分的に訳したいと思います)。
彼の自伝も率直でとても興味深い。
2004 年の講演会での話で取ったメモを書き残しておきます。今読むと本当に価値がわかります。
・ 演出家 (director)の仕事は “direct”することではなく、役者と演出家自身が自由に考え、試したり創造したりする環境を作ることである。
・ 重要なのは演出家のクリエイティビティではない。作品に誠実に接することが大事。作品が上演される場所・時間・座組・観客にとって作品が生きるようにすること。
・ 舞台に様式はなぜ重要か? 感情あらわに生々しく演じる役者を見ると、観客は引いてしまう。「叫びたいのに叫べない」役者を見ると観客は惹かれる。仮面やメークは生々しさを一歩抑える役割を持つ。ギリシャ悲劇も歌舞伎もそれが形式である。形式と自由の間には緊張感がなければならない。Verse(詩の形式)も仮面と同じ役割を持つ。仮面やverseによって役者は感情を司ることができる。
・ シェイクスピアの作品には、どこを速くしゃべるか、遅くしゃべるか、どこで止まるか、など全て書かれている。ただ「何故」だけが書かれていない。そこは自分で考えなくてはならない。
・ ピンターの戯曲では「間」がギリシャ悲劇における「仮面」と同じ役割を果たす。シェイクスピアではそれはverseである。ピンターでは、「…」と「間」と「沈黙」は使い分けられている。間は思考が変化する瞬間であり、思考が爆発しそうなのを抑えている時間でもある。沈黙は崩壊の瞬間である。ピンターでは間はセリフと同じくらい重要であり、役者にも守ってもらうことが大事。リハーサル段階では、間の部分で生の感情を出す稽古をして、最終的にそれを抑える、というプロセスを取る。
・ Ambiguity(二重性、曖昧さ)が大事。同じものを見せて、観客によって違うことを感じるような作り方をすること。ただ、作り手や役者がやっていること自体は曖昧ではない。観る人によって受け止め方が違うように作る、という意味である。
折しも昨日、NTライヴで上映中のハロルド・ピンター作「誰もいない国」を観に行き戦慄したのだけれど、この作品を1975年に初演したのもピーター・ホールだった。