「フィガロの結婚」伯爵夫人のカヴァティーナ:ファゴットと一筋の涙


 モーツァルトの魅力のひとつ、それは心の細かな震えとそれに伴う身体の状態が、和音とインストゥルメンテーションによって驚愕的なほど具体的に描き出されていることだ。

「フィガロの結婚」第2幕冒頭、伯爵夫人のカヴァティーナ。「離れてしまった夫の愛をどうぞ返してください」と切々と祈る彼女の嘆きが “o mi lascia almen morir”で頂点のAs(ラのフラット)に達した後、”Porgi amor qualche ristoro al mio duolo a’ miei sospir” に続く。最後の”sospir”の “pir” の歌の旋律はAナチュラル(ラ)。そこへ彼女の苦悩を表すように、AナチュラルにぶつかるGes(ソのフラット)がファゴットで入ってくる。このファゴットの音はコンテッサの目から溢れ出し、頬を伝う一筋の涙のように私には聴こえる。

 泣くまい、泣くまいとこらえてもつい涙があふれてしまう時、鼻がツーンとするものだ。ファゴットはその身体感覚を表現するには絶好な楽器である。ファゴットやオーボエといったダブルリードの楽器は、他の管楽器と比べてマウスピースの空気口が極度に狭く抵抗力が強いため、息を吹き込む際に顔の中心、唇と鼻のあたりにきゅっと力が入る。まさに泣くのを我慢している時と同じ部分が力むのである。その楽器から出る音は例えばフルートのような解放された音ではなく、詰まった所から発せられる抑制の利いた物哀しい情緒を伴う。
 それと涙をこらえている時は、心のうちで感情の爆発があったしばらく後に涙があふれてくるものである。高まる思いの後に涙がつーっと流れる、その時間差そして身体反応はスコア上における時間差とファゴットという楽器で見事に表されている。モーツァルトの絶妙の技に悶絶せずにはいられない。