「さまよえるオランダ人」で私が一番好きなのは第3幕、水夫の合唱の場面のオーケストレーション。
苦しい航海の末にようやく上陸の見通しがたって、水夫たちは歓喜を爆発させ、騒ぎはしゃぎ、まず舵手をからかう。「舵手よ、見張りなんかやめちまえ。」
冒頭の歌と伴奏はこんな感じ。
(総譜を掲載したいところですがスペース的に無理があるので、ピアノ譜です)
Durで全音階、リズムも和音も単純明快。
譜例①
この後10分ほどにわたって水夫たちは隣のオランダ船(幽霊船)をからかう。死んだようにひっそりと静まり返って何の反応もない船の様子に、水夫と女性たちは薄気味悪さを感じながらも、悪ふざけは次第にエスカレート。
そして、合唱は冒頭のテーマに戻ってくる。
ここ、歌の歌詞とメロディは一回目と全く同じなので、CDなどを普通に聴いていても違いには気づきにくいのだが、実はオーケストレーションが冒頭とは違う。
譜例②
冒頭のシンプルな伴奏とは違い、半音階の不気味なトレモロとスケールが繰り返されている。のちの嵐(暴風)を先取りした旋律である。
つまり、騒ぐ水夫たちはまだ気づいていないが、寝静まっているかのように見える幽霊船がひそかに目を覚ましているのだ。
(この後テーマを歌い切ったところで突然曲はmollに変わり、風が吹き荒れ、幽霊船の船員たちの声が鳴りだす。その部分のオケはこんな感じ。譜例②の伴奏と似ているのがわかるでしょう。)
譜例③
譜例②に戻る。
実際のオーケストラでは、水夫の合唱後半におけるこの半音階スケールは第一・第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが担っている。
男声合唱が威勢よく冒頭と同じメインテーマを歌い、管楽器が鳴り響く中で、弦楽器のダイナミクスはp 。だから冒頭と2回目のアレンジが違うことにはなかなか気づかない。私も稽古場でピアノ伴奏を聴いて初めて気がついた。
改めてオケの演奏に耳を澄ませると、2回目は海の風向きが次第に変わり、不穏な空気がただよい始めるのが、わかるかわからないかという微妙な音響効果で表わされている。ものすごくスリリングでかっこいい。こういった細部に、ワーグナーはやっぱり舞台人だなあと唸らされる。
また、この部分の後半には、冒頭には無かったトランペットとトロンボーンによる不気味な不協和音のファンファーレが、嵐を告げる警鐘のように挿入されていて、空気が次第に不吉感に包まれていく様子を巧みに表している。これも痺れるほどかっこいいです。
この部分の演奏を、ベーム(バイロイト祝祭管弦楽団)、レヴァイン(MET)、クレンペラー(ニューフィルハーモニア)、3つの録音で聴き比べてみた。
ベームの演奏はテンポも歌も水夫の歓喜を表すことが優先。溌剌とした躍動感に満ちていて、細部よりは全体の推進力に重点が置かれているため、弦楽器の変化はあまりわからない。
クレンペラーは崇高に厳格に音響を作っている。通常各パートがクリアに聴こえてくる指揮者なのだが、この録音では弦楽器はくぐもっていて目立たないのがちょっと意外。代わりにトランペットのファンファーレが他パートを突き抜けて鳴り響くのが特徴的。
レヴァインは威風堂々なゆったりめのテンポ運びの中、後半にかけて、特に低音のチェロがスコア通り上昇音型をクレッシェンドさせ、ぐいぐいと不気味な風を送り込んでくるのを感じる。トランペットは抑え目だがトロンボーンが大きく警鐘を鳴らす。この部分に来ると遅いテンポが逆に迫力になっている。3人の中ではオーケストレーションの変化を一番意識しているように思える。
こういう風に一部分をピックアップして聴き比べをすると、指揮者によってスコアとドラマの中の何を強調したいかが感じられて面白い。