ギルドホール音楽院オペラ科 シーンリサイタル立ち稽古②

 

 ギルドホールのシーン・リサイタルの稽古。どのシーンも立ちはついて、細部を仕上げる段階に入っている。

 これはオペラハウスの方でも散々見て来ていることなのだが、毎回感心するのは、音楽スタッフも演出家も、とにかく歌い手が「物語を伝える役割をする」ことに徹底して神経を注ぐように仕向けていることである。発声がすばらしいのは大前提として、「それを使って何をするのか」ということを物凄く重要視するのだ。きれいな声で歌っていても、そこに何か意図や思考が感じられない空虚な歌になってしまっている箇所は決して許すことがない。端的に言ってしまえば「役者であれ」ということなのだけれど。

 演出家がそういう事を言うのは当然だが、指揮者やコレペティも皆、異口同音にテキストの重要さを強調する。

 ここの稽古で演出家と指揮者が何度も言うのは、「音楽は目的じゃない。結果でしかないんだよ」ということ。その役柄が何かを伝えたいと必死になっている結果がその音符なのであって、楽譜に書かれていることを完璧に再現するだけでは表現にならない、という意味だ。「こういう音符を作曲家が書いている。そこから逆算して、その役はどういう感情・思考になっていればそういう音を出す状態になるか。それを考えて作りなさい」と言う。「思考・感情を正しく選べば、結果的にその音符になるはず。」

 「書かれている楽譜が完璧なもので、そこをゴールとして目指そうなんて思っちゃダメ。その音楽じゃ自分の表現したいことが表現しきれないよー、くらいに思わないと。この楽譜じゃ足りない、と思うこと。だから音楽に対してもっと乱暴になりなさい!」 これが指揮者の言葉なのである。

 学期の初めにオペラ部門長のドミニクが言っていた教育方針「2年間かけて『物語を語る』ことに集中できる歌手を育てること」の意味がよく分かってきた気がする。

 

 リサイタルのプログラムの中にドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」があるが、指揮者の指導は「ヴェルディやドニゼッティでは特に気をつけなければいけないのは、メロディが際立って美しいところほど、単に美しいメロディにならないようにすること。メロディに酔ってしまわないように。なぜそのようなメロディになっているのか、役柄の中に動機を見つけること。ひとつひとつの休符に意味を見つけること」

 

 ある程度立ちがついた段階でこの演出家が繰り返しやっているエクササイズが、音なしでテキストだけでシーンを演じさせるというもの。

 これはいろいろバリエーションがあって、

・  英語で演じる

・  原語で演じる

・  楽譜どおりのリズムで、音程はつけずに喋る

などがある。

このエクササイズをやると、セリフにちゃんと意図がこもっているかがあからさまに判る。

 日本人はこのエクササイズが苦手な傾向があるが、こちらの歌手も音なしで演技をやるのは多少ためらいがあるようで、照れが見えたり、勢いが足りなかったりする。

 すると指揮者がすかさず言う。「音なしでやってみると、やっぱり音楽に頼って表現をしていることがバレるでしょう。それじゃダメ。曲なしでもまるで普通の演劇のように完璧に芝居になっていて、そこに音楽を足したら演劇以上のものにならないといけないのよ」「このエクササイズをやった後に音付きでやる段階になってほっとしてるとしたら、それは違う。それは自分が音楽に乗っかってしまっていることになる。自分が音楽を作っていると思わないと。」

 

 「楽譜どおりのリズムで音程はつけずにテキストを喋る」というバリエーションのエクササイズは、音符の長さや勢いの根拠を確認するため。たとえば音符が長い場合、何故その音は長いのか、どういう意図・感情だからその長さなのか、ということを改めて確認するのが目的である。意図がしっかりこもっていないと、長い音符を長く保つ動機がなく、空虚な音になってしまう。


 ある日の演出家の言葉。「君たちは自分がどんなにラッキーか分かる? その素晴らしい声を持って生まれてきて、舞台に立って表現できることがどんなに恵まれているか。普通の人は日常生活を送っているうちに、感情のうっぷんが溜まってきて、病気になって死ぬんだよ。僕だって歌い手だったらどんなにいいか。だけど僕は君たちのような才能がない、やろうったって出来ない。でも歌い手は感情を爆発させたり、思い切りバカになったりできる。だから選ばれた君たちは思いっきりやらないといけない。演技も歌も、美しく仕上げようとか思ったらダメだ。はみ出して、やみくもにならないと」

 

 稽古場には常に演出家と指揮者がいるのだが、指揮者の方は稽古中全然振っていないし、歌手も指揮を見ている様子がない。不思議に思って演出家に訊いたところ、このリサイタルは指揮者なしで行うスタイルなのだった。「テンポというのは本来、自分の中から生まれるものであって、指揮者の指示に受け身で従うものではない。指揮者がいる場合でも、テンポや息を合わせるのは歌手と指揮者の共同作業で行うべきもの。生徒にその意識と責任感を持ってもらうために、指揮者なしで公演をやる」という話であった。この教育方針の徹底ぶりには本当に感心する。