オペラ演出について&リヨン歌劇場 「ルサルカ」

オペラ演出について&リヨン歌劇場 「ルサルカ」

 ↑ この巨大な写真を削除しようとしてるのですが削除できません・・・なんででしょう・・・

 

 Anyway.

 日本に帰国直後から一週間、セゾン文化財団主催によるコンテンポラリーダンスのセミナー・ワークショップ「ダンスアーカイブの手法」の通訳をしていた。日本を代表するダンサーの方々の創作プロセスや思考に触れることができてとても面白かった。

 コンテンポラリーダンスは究極的に言えば、美術も照明も衣装も音楽もなしで、ただ1人の身体さえあれば表現することができる。それも社会に対する違和感とか、自分に対する違和感とか、異議、発見といった、自分が日々の生活の中で感じるようなことを、生身の身体で直接的に表現できる。今日的な主題を扱うことが多いので、観客もダイレクトに反応できる。

 それに比べてオペラはどんなに削ぎ落としても限界がある。書かれたとおりにまっとうに上演するとなればオーケストラ、合唱、スタッフ、全部で百人以上が関わる。作品は自分より古い時代に生きていた人によるものがほとんどである。ある日ふと感じたことをそのまま表現しよう、というわけにはいかない。表現手法としては本当に手間ひまかかって回りくどい。 

 色々な意味でオペラを刷新していくのは大変な努力がいる。誰かが新しい試みをしようと思っても抵抗する勢力が必ずいる。抵抗勢力はお客さんである場合もある。

 

 演出ということだけに焦点を当てると、実はイギリスのオペラはあまり先進的ではない。9月から12月までにROHの本舞台で上演した演目は全て観たが、演出はどれも中庸でぱっとしなかった。ROHとは一線を画しているはずのENO(イングリッシュナショナルオペラ)も秋シーズンに観た数本に関しては特筆すべきものがなかった。

 ROHに熱心に通う観客はシニア層が多くてかなり保守的である。実験的な試みに触れるよりも古くから馴染んでいる演出で同じ演目を繰り返し観たいようだ。例えば「ラ・ボエーム」は1971年初演のプロダクション(以前ご紹介したジョン・コープリー演出)を未だに上演している。なんと44年間も同じ演出なのだ。さすがに今シーズンを最後に新しい演出に変わるのだが、観客はその事が不満でたまらないらしい。

 去る10月にオペラ部門の芸術監督カスパー・ホルテンによる一般聴衆向けのレクチャーがあった。テーマは「なぜオペラは演出を刷新していくべきなのか」。(ホルテンは1973年生まれの若い演出家で、自分も新しい演出をするタイプ。)残念ながら私は行けなかったのだが、参加した友人によると、客席の大半を占めたシニア層の固定客がホルテンを徹底的に攻撃したそうだ。後日、レクチャーに同席したROHの演出スタッフが嘆いていた。「あれはひどかった。観客の批判があまりにひどくてカスパーが怒りで震えてたよ。演出ってのは古くなるものなんだ。あのボエームなんて、悪いけど古すぎてキーキーきしむ音がするくらいだ。あれを変えたくないなんてイギリスのオペラの観客は本当に保守的で困る。ドイツみたいに小さい頃からオペラを観に行く習慣がないから、オペラを聖典のように思ってしまうんだ」

  

 さて、帰国直前に遊びに行ったリヨンでオペラを1本観た。これがとても面白かった。劇場の発しているエネルギーもロンドンとはかなり違うように思った。方向性としてはドイツの劇場に近いのだが、リヨンは劇場の建物そのものが先端的で、集まっているお客さんも目に見えて若い。ハードとソフトの両輪で劇場のスタンスとポリシーを明確に打ち出しているのが感じられる。実際、リヨン歌劇場は現在ヨーロッパで客層の若返りに最も成功しているオペラハウスの一つなのだそうだ。

 リヨン歌劇場は創立1756年で、現在の新しい建物が開場したのは1993年。建物のデザインはジャン・ヌーヴェル。現在の音楽監督は言わずと知れた大野和士氏。

 

 これが外観。

 

 

 建物の中に入ると、内装は非常に現代的。ロビーから客席エリアへの階段はこのような感じ。

 

 そして客席に入るとビックリしたのが、客席エリアは従来の馬蹄形のオペラハウスの形状を踏襲しながら、ギャラリーやボックスの形はシンプルで色が全て真っ黒なこと(写真撮影不可で撮れなかったのですみません)。

 ヨーロッパのオペラハウスに行くとよく感じる矛盾は、舞台の内容(演出)が現代的であればあるほど、客席の豪奢さとミスマッチで滑稽に見えることである。ヨーロッパの歌劇場の大半は貴族の社交場として発展した歴史があり、改修を重ねても建物は当初の様式をとどめているものが多い。いくら舞台上で反体制的な主張をしても、観ているお客さんは豪華な客席で「反体制なエンタテイメント」を見て知的な優越感に浸りたい「体制側」の人間なのではないかと思ってしまう。

 (ちなみにROHの現在の客席はこれ。新しい建物に建て替えた後も、様式は以前の雰囲気を再現している)

 

 その点リヨン歌劇場は舞台上と客席の方向性が一致している。お客さんもドレスアップしている人はほとんどいなくて、1番下の階のオーケストラシートでもジーンズ姿の人が多かった。街の一般市民が気軽に足を運んでいる感じだ。

 そして面白いのはバー。ここだけは以前の建物の内装を使っていて、客席とは異次元の世界にタイムスリップする。休憩中はこのオペラハウスの歴史を感じながらワイワイガヤガヤ。壁にはこの劇場にゆかりのあるらしいフランスの作曲家や台本作家の名前(マイヤベーア、アレヴィ、リュリなどの名前を発見)が刻まれている。

 

 その日観たのは、現在もっとも注目されている演出家の一人シュテファン・ヘアハイム演出による「ルサルカ」。これが本当に面白かった! 

 設定は現代ヨーロッパのどこかの街角で、ルサルカを娼婦に見立てている(オリジナルでは水の精)。セットは極めて写実的で、中央に地下鉄への入り口、周囲にはアパートらしい建物、一階はショーウインドーなど。

  本編が始まる前、前芝居としてエキストラによる無言劇が繰り広げられる。雨の街を行き交う人々。家族と家族が出会い挨拶を交わす。少女が現れて道を尋ねる。地下鉄の入り口から人が次々出てくる。盲目の浮浪者が地下鉄の入り口へ向かっていく。これが数分続き、いい加減本編が始まらないだろうかと思う頃、客は気づく―― 無言劇が冒頭から再生されていることに。最初と同じ家族と家族が出てきて挨拶を交わす。少女が現れて道を尋ねる。地下鉄から出てくる人、入っていく浮浪者… 全く同じことが繰り返される。どうやらここで起こっていることは写実的に見えて、時空がゆがんだ幻想の世界らしい。

 この演出では主人公はルサルカではない。主人公はルサルカの父親――ただしこの演出ではルサルカの顧客兼パトロンらしき男性――のほうである。ルサルカはこの男性の「女神」であり、すべては男性の夢や幻想として進んでいく。

 写実的なセットにはさまざまな仕掛けがあり、場面によって壁がアコーディオンのように伸び縮みしたり、カフェの名前が “Lunatic”(月=狂気)から “Solaris”(太陽)に変わったり、ショーウインドーがセックスショップからウエディングドレスショップに変わったり。つまり男性の「夜の理想」と「昼の理想」が交互に現れる。

 ルサルカと結婚する「王子」は男性の若き日の姿。王子を誘惑する「外国の王女」は男性の妻の昔の姿である。2幕になるとルサルカと外国の王女、男性と王子がそれぞれ全く同じ衣裳で現れ、男と女はそれぞれ同一人物だということが示される。

 考えてみれば「ルサルカ」の登場人物の役名はどれも固有名詞ではない。「ルサルカ」はスラヴ語で「人魚」という意味だし、それ以外の役名も「王子」「ワッサーマン(水の精)」「魔女」「外国の王女」といった具合で、すべて代名詞。だからこの物語を「男性の幻想を描いた寓話」とみるヘアハイムの解釈は理に適っている。

 演出は実験的なだけではなくて音楽的にもよく合っていたし、ユーモアもあって、今年観たオペラの中では一番だった。

 この演出はこれまでにもドイツやベルギーなどのいくつかの歌劇場で上演されているようである。ただしヘアハイムは一部の売れっ子演出家と違い、別の歌劇場で新しく上演される度に自分で足を運んで演出しているようで、リヨンのプロダクションもキャストの熱が感じられた。観劇した日がリヨンでのプレミエだったのでヘアハイムのカーテンコールに登場していた。

  最初のコンテンポラリーダンスの話に戻ると、オペラはその複雑な要素がうまく結びついて作品の力が深く掘り起こされた時、ほかの舞台芸術では味わえない至福の時間を与えてくれる。

 と、年末なのでまとめてみました。

  お読みいただきましてありがとうございます。来年も時間を見つけて更新続けますのでどうぞよろしくお願いいたします。