以前、ダ・ポンテの伝記を日本語で読み(田之倉稔「モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯」平凡社新書)、その数奇な人生があまりに面白くて、もっと詳しい伝記を読みたいと思っていた。ロンドンの古本屋で見つけたこの本を今、半分まで読んだところ。
Lorenzo Da Ponte: The Life and Times of Mozart’s Librettist by Sheila Hodges
とても詳細にリサーチがなされていて、何冊かあるダ・ポンテの伝記の中でも一番信頼に値する本と評価されているようです。
本名エンマヌエーレ・コネリアーノ(Emmanuele Conegliano)、イタリアのチェネダでユダヤ人の家系に生まれた。幼い時に家族で揃って洗礼を受けてカトリック教徒となり、その際に洗礼を授けた神父の名を与えられてロレンツォ・ダ・ポンテに改名した。
幼い頃から文才を発揮し、生まれ故郷を出てヴェネツィアで詩人として活躍ののち、ウィーンで台本作家となる。人間的にはお人よしで情熱的、惚れっぽく、次から次へと性格の悪い女の餌食になる。女遊びが激しいというよりは、気が強くて我儘な女性に振り回されるパターン。ヴェネツィアも女性スキャンダルが元で追放されている。自分の才能については自惚れ気味で、手柄を誇張するふしがある。
毀誉褒貶の激しいことはモーツァルト以上。人を信じやすいのが災いし、ライバル達の策略にかかってウィーンを追放され、流浪の民となって人生の最後の30年間はニューヨークで不遇の時を過ごした。そしてこの最後の展開「アメリカ」の部分が、本人は不本意だっただろうけれど、可笑しくて哀れでドラマの展開として最高に面白い。
彼がウィーンでこの三大喜劇を書いていた頃はまさに人生の絶頂期で、ウィーンの宮廷付詩人でもあり、引っ張りだこの売れっ子台本作家だった。モーツァルト以外にも同時期に、モーツァルト以上に成功していたサリエリ、マルティン・イ・ソレール、パイジェッロ等にも台本を提供している。(「ドン・ジョヴァンニ」の頃のモーツァルトとダ・ポンテの様子については以前書いた こちらの記事を参照)
だが栄光はたったの10年そこそこだった。彼を寵愛していた皇帝ヨーゼフ2世が死去し、次の皇帝レオポルトが就任したところで潮が変わる。10年間の活躍の間に彼は業界仲間の妬みを買ってしまっていた。彼を嵌めようとするライバルたちの策略にかかり(その中にはかつて作品を一緒に作ったサリエリも含まれていた)、宮廷付詩人の地位をはく奪されて、皇帝よりウィーン追放命令が出てしまう。
ウィーンを去った後、ロンドンで台本作家として再起しようと頑張ったがはかばかしい結果が出ず、破産して、1805年、妻の親類を頼ってアメリカに渡り、ニューヨークやペンシルヴェニアに住んで、生活のために雑貨屋を営んだ。
ダ・ポンテは詩人・作家としての野心を捨ててはいなかった。機会さえあれば自分が何者かを証明しようとアピールを怠らなかった。しかし19世紀初頭のアメリカは未開の地である。当時のアメリカではイタリア文学について知る人などほとんどいない。オペラなど上演されたこともない。モーツァルトの名を知る人もいない。自分がウィーンではかつて時の寵児だったことを説明しようにも話は通じず、首をかしげられるばかり。現代の日本の有名人が江戸時代にタイムスリップしてしまったような気分だったのではないだろうか。
やがて自分は商業に向いていないと悟り、なんとか自分の専門であるイタリア文学とラテン文学で生計を立てたいと考える。この野蛮な未開の地で、素晴らしきイタリア文学を広めることに貢献しよう、と彼は崇高な目標を立てる。運よく知人のつてでコロンビア大学でイタリア文学を教えることになったのだが…
今日はここまで。この本は日本語の方の伝記に載っていないディテールも色々あるので、読み進めたらまた書きます。
ところで、「フィガロの結婚」の第3幕、フィガロが実はマルチェリーナとバルトロの息子だったことが判明するシーンで、フィガロの生まれた時の名が「ラファエッロ」だと明かされるが、オペラの原作であるボーマルシェ作「フィガロの結婚」では、フィガロの本名はラファエッロではなく、エマニュエルである。登場人物のほとんどの名が原作そのままオペラに使われているのに、なぜここだけ別の名前にしたのか? それはきっと、ダ・ポンテの元の名がエンマヌエーレで、自分の出自を思い起こさせるからではないか、とこの伝記の作者シーラ・ホッジズは推測している。成程。