大学の授業の準備のために「フィガロの結婚」オペラと原作両方を改めて読み直していて、バジリオというのは思ったよりドラマの中で重要な人物だということに気がついた。彼はフィガロとスザンナにとって単なる「適側のイヤな人間」だというだけではなく、直接フィガロを脅かすライバルでもある。
「フィガロの結婚」でのバジリオの公の仕事は「音楽教師」だが、伯爵は彼に、音楽とは関係ない用事を事細かに言いつけている。最も重要なのが「自分の気持ちをスザンナに取り次ぐこと」で、それ以外にも「ケルビーノの辞令を用意し、印鑑を押すこと」「ケルビーノがセヴィリアにちゃんと到着したかどうかを確かめること」等等。
でも、こういう雑用はもともとフィガロの担当なのでは? 前作「セヴィリアの理髪師」で、フィガロは「セヴィリアの街のfactotum (雑用係)」であった。そして伯爵がロジーナを手に入れるのを手助けした実績を買われて、前作から「フィガロの結婚」までの間に、伯爵個人のfactotumとして正式に雇用されたのだろう。だから「ケルビーノの辞令云々」のような雑務は本来ならフィガロがやるべき仕事のはずだ。
ところが、いつの間にか伯爵は、フィガロでなくバジリオにそういった雑用を頼むようになっている。スザンナの事をフィガロの頼まないのは当然としても、それ以外の用事まで、なぜ音楽教師のバジリオに?
前作からの経緯を見ると、バジリオはもともとバルトロの屋敷に出入りする「音楽教師」だった。バジリオと伯爵が出会ったのは「セヴィリア」が初めてで、それまでは面識がないはずである。
「セヴィリアの理髪師」においてバジリオは、バルトロから恋敵(伯爵)を追い払うための策について相談を受けている。つまりその時、バジリオにとって伯爵は敵側の人間だった。ところが「フィガロの結婚」になると、ちゃっかり伯爵の城に登用され、伯爵のご用聞きになっている。バジリオは、仕えるならバルトロよりも伯爵のほうが実入りが良いと判断し、雇用主を乗り換えたのだろう。(「フィガロ」の原作でも、バジリオが伯爵の家に住むようになったことをバルトロが知り「あのならず者までこの館に住み込んだか。まるで化物屋敷だな」と毒づくシーンがある。)(もちろん、転職のきっかけは自分の生徒であるロジーナがバルトロの家から伯爵の家に移ったことに違いないが、バジリオが力を注いでいるのはどう考えても音楽活動ではない。)
バジリオは自分でも言っているとおり「噂話を買い、噂話を売る」ことを商売とする。城の中の人間関係に常に目を光らせている。ケルビーノが伯爵夫人を気に入っていることもちゃんと気がついている。公に出来ないような情報を仕入れ、うまく利用するのがバジリオは何より得意だ。その武器を使って伯爵に自分を売り込んだに違いない。結婚しても色々な女に目移りが止まらない伯爵はバジリオを信用するようになり、ついでに身辺の雑用を含めた色々を頼むようになったのだろう。
つまり、フィガロはぼやぼやしているうちに婚約者を伯爵に取られそうになっているばかりではなく、自分の仕事をバジリオに奪われそうにもなっているのである。1幕でスザンナ相手にのんきに「もしも伯爵からドンドンと呼ばれたらひとっ飛びで行ける…」なんて歌っているが、実は今や、ドンドンと呼ばれるのは彼ではない、バジリオである。フィガロは城での立場も危うくなっているのだ。
それも致し方ないかもしれない。なにしろ、伯爵がスザンナに目をつけていることはマルチェリーナでさえ知っているが、肝心のフィガロはスザンナに言われるまで気づかない。フィガロはそういった事にてんで疎くて鈍い。スザンナの事に限らず、伯爵が公にできない欲望を達成しようと思ったら、フィガロよりもバジリオのほうが話が通じやすいのである。
バジリオは道義ではなくカネで動く人間である。払いが良いほうに簡単に乗り換える。(それは「セヴィリアの理髪師」でもはっきり書かれている。)そういう堕落した人間にフィガロは正義感で立ち向かっていく。
「セヴィリア」でフィガロの敵はバルトロだった。そして、ボーマルシェ三部作の最後「罪ある母」では、さらに狡猾な人物が登場して伯爵の家庭を引っ掻き回すが、最後にはフィガロが勝利する。「セヴィリアの理髪師」から「罪ある母」までの三部作を通してみると、ボーマルシェの人生のテーマは「正義をもって狡猾な人間と闘う」ことなのではないだろうか、ということに思い当たる。
さっきからバジリオを「音楽教師」とカッコ付きで書いているのは、実はよく見ると「セヴィリアの理髪師」でも「フィガロの結婚」でも、バジリオが音楽家らしいことをしている場面はほとんどないからだ。「セヴィリア」ではロジーナの、「フィガロ」ではスザンナの音楽の先生ということになっているが、彼が直接レッスンしたりする場面はなく、原作で一度ギターで小唄の伴奏をするくらいである。実は音楽の知識はいい加減で、それをごまかしつつ、うわさ話をネタに人を脅したりゆすったりして食い扶持をつないでいるエセ音楽家という解釈も可能である。少なくとも一流音楽家ではないだろう。
そう考えた場合、バジリオにとってゴシップの仕入れはただの趣味ではなく、自分の首がかかった生命線なわけだから、より熱心に人間観察にエネルギーを注ぐことだろう。
折しも現在アントニオ目線から見た「フィガロ」が上演されているが、バジリオ視点から描く演出もあり得るかもしれない。彼の鋭い目には他の人物達には見えていない色々なことが見えているはずだ。