近々「トスカ」を部分的に演出するので、オペラ「トスカ」と原作「ラ・トスカ」の関係について。
戯曲「ラ・トスカ」(サルドゥ作)は、現在は全く上演されない凡作メロドラマだが、登場人物たちの生い立ちなど背景情報が詳細に書き込まれているので、オペラを理解するための資料としては貴重である。また、戯曲がオペラ化されるにあたってどういった編集が施されたかを知ると、プッチーニがドラマティストとしていかに優れていたかを知ることもできる。
「ラ・トスカ」の主要人物(トスカ、カヴァラドッシ、アンジェロッティ、スカルピア)はフィクションだが、彼らと絡み合う歴史的背景や人物には実在の素材が使われている。
舞台は1800年6月17~18日のローマ。ナポレオン率いるフランス軍がイタリア北部でオーストリア軍と闘って勝利を収めた「マレンゴの戦い」の日。ナポレオン以外にも、作曲家チマローザやパイジェッロ、英国大使のハミルトンとハミルトン夫人、ナポリ王女マリア・カロリーナ、画家ジャック・ルイ・ダヴィッドといった歴史上の人々が登場したり会話の中に名前が上ったりする。史実を正確に盛り込むことに関してサルドゥはこだわりのある作家で、リサーチ目的の私有図書館に8万冊の蔵書を持っていたという。
フローリア・トスカとマリオ・カヴァラドッシの生い立ちはこのような設定になっている。
捨て子だったトスカは、ヴェローナの僧侶に引き取られ、修道院で育てられた。修道院のオルガン奏者に音楽を教わって才能を現し、16歳の頃には地元のスター歌手になっていた。彼女の歌を聴いたチマローザが彼女に自分のオペラに出演させたいと申し出たが、修道僧達がトスカを手放すのをしぶったため、ローマ中の世論を二分して争い、法王が仲裁に入るほどの騒ぎになった。トスカが御前演奏をすると、法王は彼女の歌にいたく感動し、「行きたい所に行きなさい。あなたの歌を聴いて人々は心で涙を流すでしょう、私の心も泣いたように。それもまた神への祈りの一つの形なのです」と言った。4年後、トスカはパイジェッロのオペラ「ニーナ」でデビューを果たし大成功を納め、その後スカラ座、サンカルロ、フェニーチェなどで歌ってセンセーションを巻き起こした。
オペラでもトスカが信心深いのはこんな成り行きがあったからである。また、彼女の異常な嫉妬深さは、捨て子だったことで愛情に飢えていて独占欲が強いためと考えることができる。
マリオ・カヴァラドッシはローマの名門貴族の出身だが、フランス革命に至る時期のパリで生まれ育ったため、自由主義者で、ローマ教皇庁から「ボナパルト派」として危険視されている人物である。
(教皇庁と革命フランスは対立関係にあった。仏革命は伝統的なキリスト教支配と絶対王政を否定する運動だから当然である。1800年前後のローマは短期間に共和制と教皇支配を行き来し、政治的に不安定だった。1798年からの短い共和制ののち、この物語が設定されている時期は教皇国家が復活し、ナポリ王国の支配下にあった。共和制側と見られる人物は弾圧され、ローマ共和国の執政官だったアンジェロッティも投獄されていた。)
マリオの父親はディドロやダランベールと交流をもつ啓蒙主義者で、若い頃からパリに住み、パリ出身のマリオの母親と知り合って結婚した。マリオ自身もパリで育ち、画家ダヴィッド(ナポレオンの肖像画家。あの有名な馬に乗っている絵を描いた人)のアトリエで修行を積んだのちローマにやってきた。
マリオは服装、髪型、態度、すべてが伝統的な貴族とは違うため、ローマでは警察の目を引いてしまう。(自分は革命以前の貴族のように化粧鬘をかぶったり、膝上ズボンを履いたりせず、髪を伸ばし髭を生やしているから、と戯曲の中で自ら言っている)
危険と知りながらローマにとどまっているのは、ひとえにトスカと恋仲になったためである。二人はアルジェンティーナ劇場で知り合ってお互いに一目惚れした。次のシーズンになれば、トスカはヴェネツィアで契約がある。それまでは彼女と一緒にローマにいなければならない。それで時間を稼ぐために、信仰心を装って、教会の壁に無償で絵を描くと申し出たのである。
以上はすべて、原作の第1幕、脱獄してきたアンジェロッティとカヴァラドッシが教会で出会い(二人はオペラでは旧知の仲だが、原作では初対面同士)、お互いに身の上を語る会話の中で出て来る情報である。緊迫した状況にしてはお喋りが延々と続いて呑気過ぎるし、作劇法としてかなり稚拙で、この戯曲がその後全く上演されなくなったのも無理はない。
展開がよりスピーディで劇的になるよう、これをどうプッチーニが料理したか…という話と、スカルピア、アンジェロッティ、サグレスターノについては次回書きます。
参考資料:
– La Tosca, Play in five acts by Victorien Sardou, translated into English by Deborah Burton, 1990.
– English National Opera Guide 16 “Tosca,” John Calder Ltd., 1982.