「フィガロの結婚」の様々な疑問

 演出家のT氏が同志を集めて始めた「フィガロの結婚」と「セヴィリアの理髪師」についてのネット上の勉強会に参加している。

 「フィガロの結婚」はあまりにポピュラーな演目のため、演出・演技上いろいろなことが慣習化されてしまっていて、細部に疑問を持たずに上演してしまいがちだが、よく目を凝らすとわからない点がたくさん出てくる。そこを丹念に調べて解消していこうというのが会の主旨。

 たとえば「フィガロ」の冒頭でフィガロが物差しを手に、何かを測っているところ。「5、10、20、30、」そこまでは分かるとして、その次に来る数字が「36、43」という中途半端な数字なのは何故なのか。「36」がベッドの長さだったとしても、そこで測るのを終えずに次が「43」なのはどうしてなのか。

 原作では、フィガロはトワーズという当時の単位の定規を持って床を測り、「26ピエと19ピエ」と言っている(ピエはフランス語で足という意味で、ピエ・ド・ロワ(王の足)という単位の略。今のフィートに近い)。床を測っていると明記されているから、この数字は部屋の各辺の長さと思われる。対して、オペラのほうは単位も書いていないし、この中途半端な数字は何を測っているのだろう?

 これについては色々意見が出たが、私個人の大まかな推測としては、モーツァルトとダ・ポンテが何の考えもなしにこの数字を選んだということはきっとあり得ず、そして悪戯好きでエロネタ好きな二人のことだから、スザンナの身体のサイズに関することとか、何かそっち方面の遊びが隠されているのではないかと思っている。

 また原作を読み込んだ結果、少なくとも原作では、コンテとコンテッサは結婚して少なくとも12、3年は経っているらしいという事が判明した。何を根拠にそういう結論となったかは内緒。でも原作に書かれているかなり具体的な情報から引き出した結論である(オペラではこのディテールは省かれている)。ただし、自分がオペラ「フィガロ」を演出する際は二人の結婚年数はもっと短く、3、4年くらいの設定にすると思う。なぜならモーツァルトがコンテとコンテッサの感情のもつれを巡って書いた音楽は繊細で切実で、結婚から十数年も経った夫婦のものとは思えないからだ。十数年も経ったらコンテの浮気は一つや二つではおさまらないだろうし、コンテッサももっと諦めの境地にいるのではないか。

 

 目下、私の疑問は「フィガロは何のためにマルチェリーナからお金を借りたのか」。

 オペラではフィガロはマルチェリーナから2000ドゥカートのお金を借りたことになっている。ドゥカートは当時ヨーロッパで広く普及していたお金の単位で、金貨の場合、18世紀の時点で1ドゥカートが2ドルくらいの価値だったとある資料に書かれている。つまり4000ドルくらい、大まかに言って40万円くらいの借金なので、従僕の身分でそんなに簡単に借りたり返したりするような金額ではない。(原作では借金は2000ピアストル。1ピアストルの価値に関する情報は見つけられなかった) フィガロはいったい何故この金額を借金する必要があったのか。これは「フィガロ」のオペラにも原作にも書かれていない。

 ヒントは「セヴィリアの理髪師」原作に見つけた。コンテの下僕になる前、フィガロは理髪店を営みながら町の何でも屋をやっていたが、その前はマドリッドで劇作家を志し、文筆で身を立てようとしていた。しかし文壇の陰謀に巻き込まれて商売を妨害され、やむなく筆を折って床屋に転身する事にした。その頃のフィガロは冒険がたたって経済的にかなり不安定だったようだ。

 1幕2景にフィガロがコンテに身の上を嘆くシーンがあり、フィガロの口から「借金」という言葉が出てくる。「マドリッドの文壇のありさまを見てみますと、まるで狼の寄り合いで、おたがいにしょっちゅう牙を向き合って、くだらぬ片意地をはったあげくのはては・・・(中略)新聞屋虫だの、出版屋虫だの、検閲屋虫だの、そのほか、哀れむべき文士たちの皮膚にとっついている虫どもが、やっこさんたちの、なけなしのごちそうを切り苛んで、吸い取ってしまうというていたらくです。それに私は、ものを書くことにも疲れてしまい、自分には愛想がつきるし、人はいやになるし、借金はかさむ、財布は軽くなる、とどのつまりが、カミソリのかっちりした収入のほうが、はかない筆の名声よりもましだとつくづく悟りましたので、マドリッドにおさらばを決めたしだいなのでございます。」(ボーマルシェ「セヴィラの理髪師」進藤誠一訳、岩波文庫) フィガロはこの時代に作った借金を、セヴィリアに移住してからマルチェリーナから借りて返済したのが、そのままになっていたのではないだろうか。

 ボーマルシェ自身、専業の劇作家だったわけではなく起業家精神の旺盛な人で、生涯にわたって新しい事業に手を出しては成功したり失敗したり波瀾万丈の人生を送った。何度も訴訟に巻き込まれているし、借金をすることも度々あったことだろう。フィガロはボーマルシェの分身だと言われているので、その辺りの本人の切実な事情をフィガロが負わされたのだろうと思っている。