トリスタンとイゾルデ(2)小舟に揺られる幼いトリスタン

 

 前回の続き。

 トリスタンの生い立ちについてはオペラ中では少ししか言及がなく、第3幕の本人の独白から「彼の父親は彼が生まれる前に死に、母親は彼を産む時に死んだ」ということがかろうじて分かるだけである。しかしこれがトリスタンとイゾルデとの運命を決定づける要素なので、オペラをより良く理解するためには重要な情報である。詳しい生い立ちは原作に書かれている。

 原作といっても、このオペラの原作は「フィガロの結婚」や「椿姫」のように同時代に出版された小説や戯曲ではなく、中世にヨーロッパ各地で書かれた詩の断片である。

 ヨーロッパでは昔からトリスタンとイゾット(イゾルデ)についての伝説が様々な形で語り継がれていた。ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の直接の題材はゴットフリート・フォン・シュトラスブルクによる「トリスタンとイゾット」(13世紀初頭に執筆)だが、ワーグナーはこれ以外にもこの伝説の別バージョンをいくつか所有していた。一つはベルールというフランスの詩人による詩の断片。もう一つは中世英語で書かれた「サー・トリステム」で、1806年にスコットランドの詩人サー・ウォルター・スコットがエディンバラの図書館で発見したもの。また16世紀ドイツのミンネゼンガー、ハンス・ザックス(マイスタージンガーの主人公)が書いたものも知っていた。

 これら様々なバージョンの「トリスタン伝説」に登場するトリスタンは宮廷から宮廷を渡り歩く吟遊詩人である。(ケルトのヒーロー伝説の主人公は吟遊詩人であることが多い。)同時に彼は狩人で、馬術が得意。様々な言語に堪能でケルト語、ドイツ系の言語、ラテン系の言語を自由に操る。戦争の際にはその時々の宮廷のために戦う。あらゆる技術に長けているトリスタンはどの宮廷にも容易に溶け込むが、一方でそれは彼が帰る家がない放浪民であり、どこにいても結局はアウトサイダーで、本質的に孤独であることも示している。また彼は生まれた時には両親が死んでいて、孤児として育った。

 

 彼の生い立ちはこのようなもの。

 コーンウォールのマルク王(トリスタンの叔父)は、パーメニーという国のリヴァリン王と同盟を結んでいたが、リヴァリン王はマルク王の宮廷に滞在していた時、マルクの妹ブランシュフルールと恋に落ちて妊娠させてしまう。ブランシュフルールはリヴァリンと共に駆け落ちするが、リヴァリンは戦争で倒れ、リヴァリンの死の床で二人は結婚する。ブランシュフルールはトリスタンという男の子を産みながら亡くなる。トリスタンはクルヴェナールという忠実な従者の手で育てられる。(ただしゴットフリートのバージョンではクルヴェナールはマルク王の従者であり、トリスタンを育ててはいない。)

 まだ幼いある日、トリスタンはノルウェーの商人たちに船でさらわれてしまう。しかし船が嵐に巻き込まれ、商人たちはトリスタンを小舟に乗せて見捨てる。その小舟はコーンウォールに運ばれ、マルク王のもとに連れていかれる。トリスタンの美しさと礼儀正しさに魅了されたマルク王は彼をすっかり気に入る。やがてマルクはトリスタンが自分の甥だと知り、ますます彼を重用する。成長したトリスタンは恩義から彼のために諸国でコーンウォールのために軍を率いて戦うようになる。その中でアイルランドのモロルトと戦って彼を殺す。モロルトはアイルランドの女王イゾットの兄であった(オペラではイゾルデの婚約者)。やがて彼は女王イゾットの娘イゾット(母親と同名)と恋に落ちる。

 

 オペラの3幕で、瀕死のトリスタンは「父親の死を知り、母親の死を知った幼い頃の自分」を思い返し、「どういう運命の元に自分は生まれたのか」と問い、「ひどい苦しみを味合わせたあの媚薬は、自分自身が調合したのだ」と結論づける。つまり彼は、「親の愛を知らない自分は、孤独感からイゾルデの愛に引き寄せられた。イゾルデと苦しい恋に落ちてしまったのは自分自身のせいだ」と自己分析している。

 名誉を重んじる「昼の世界」から逃げて、母親の胎内の中にも似た「夜の世界」で、渇望していた愛に包まれたいという彼の願望は、親の愛情を全く知らずに孤独に育った、彼のこのような出自から来ている。

 特に、幼い記憶の中でも「ひとり嵐の中、小舟に揺られていた」という原風景が、とりわけ彼の不安と孤独を強めている気がする。  

 波に揺さぶられる情景はオペラの1幕のイゾルデの心情とも重なる。1幕においてイゾルデは、物理的に船に乗って外国に運ばれている状態でもあり、また満たされない恋心と、好きな人から受けた裏切りに対する怒りにさいなまれている。この揺さぶられ状態は、音楽的に「イゾルデの怒り」のライトモティーフ」にも表現されている。

 間もなく「トリスタンとイゾルデ」の稽古に入ります。偶然にも?このプロダクションでは「小舟」が重要なアイテムです。

 

参考文献: Scruton, Roger. Death-Devoted Heart: Sex and the Sacred in Wagners Tristan and Isolde, Oxford University Press, 2004.