先週から二期会「トリスタンとイゾルデ」の稽古中。昨日で2幕終わりまでいった。4時間近い長大な作品の3分の2を7日間でつけたので、かなり早いペースで進めている。
稽古場の言語は英語とドイツ語。今回は2言語だけだが、プロダクションによっては日本側キャストの得意な言語がフランス語やイタリア語の場合もあり、ヨーロッパの演出家はだいたいいくつかの言葉が話せるので、4か国語くらい飛び交う事もある。そういう状況に対応するためにせめてドイツ語とイタリア語はリスニング力もつけるため色々努力はしてきたものの、英語以外はなかなか通訳できるレベルには至らない。
さて、このプロダクションに入る前、準備のためにいくつかの名だたるレコーディングを聴き比べた結果、カルロス・クライバー指揮・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏が一番気に入って、最終的にはそればかり聴いていた。理由は演出家目線で見て、この録音の歌手の演技水準が最も高くて緻密だから。映像ではなく録音なのに「演技?」と思われるかもしれないが、この演奏は確かに、まるで演出家が入って指導したかのような人物造形と緻密な解釈がすべてのフレーズに感じられるのだ。
例えば一幕冒頭の水夫の歌。歌い終わりにかけて、水夫はまるで誰かを脅迫するかのように吐き捨てる感じになる。楽譜には “feurig”(熱をこめて)と書かれてはいるものの、ネガティブな意味ではないので、この録音の歌い方はクライバーの指示によるものに違いない。この直後に、歌を聴いていたイゾルデが「誰が私を馬鹿にするの?」と反応するので、水夫がそのように歌っているというよりも「イゾルデの耳にはそのように聴こえる」とクライバーは解釈したのだろう。
2幕ではマルケ王の歌。トリスタンとイゾルデの密会を発見してしまったマルケの嘆きのモノローグは、録音によっては延々と吠えるばかりの感じのものもある。マルケはテキストも音楽も抑制されたもので、ダイナミクスは基本的にピアノ、時々抑えきれなくなってフォルテになるという形なので、表現としては怒りの爆発というよりも、悲しみを内側に押し殺した内省的なものであるべきだと思う。このクルト・モルのマルケはつぶやくように始まり、聴いているほうが思わず身を乗り出して同情してしまうような深い悲しみがある。
クルヴェナールのフィッシャー=ディースカウはフルトヴェングラーの録音(1952年)でもこの役を歌っているのだが、フルトヴェングラーの時のほうが声に張りがあり、クライバー盤(1980~82年)では衰えてしまっているというのが世間一般の評価のようである。確かに声だけで評価すればそうだが、私はクライバー盤のほうが表現としてはずっと豊かだと思う。特に3幕はフルトヴェングラー盤では感じられないトリスタンへの愛情と気遣いがひしひしと伝わってくる。
イゾルデ役を歌っているのはマーガレット・プライスで、もともとはモーツァルトのリリックな役を得意とした歌手。キャリア後半は重めの役も歌ったが、イゾルデは舞台では一度も歌わなかった。この配役が絶妙。他の録音のイゾルデとは全く違う可憐な声で、そういえばイゾルデが⒑代の少女にすぎないことを思い出させてくれる。彼女の録音を聴いてしまうと他の野太い声のイゾルデはもう聴けなくなってしまう。
プライスはイゾルデを歌うつもりは全くなかったが、クライバーの熱心な口説きで録音に限って挑戦したことを、以前の記事で紹介したドイツのオペラ歌手インタビュー番組Da Capoで話している。(この時はもうすっかりおばさんになっているが…)
https://www.youtube.com/watch?v=JtjI-WWehV0
もちろんオケの演奏も素晴らしい。クライバーの特徴は「変幻自在」。瞬間、瞬間、テンポや勢いがどんどん変化し、感情の振れ幅がなんと鮮烈に表現されていることか。
クライバーのオケの練習風景がいくつかYouTubeにアップされている。「こうもり」の練習では、彼が何度も止めて、場面状況や役の感情などを説明している。そういう説明がうざったくてシンフォニーオーケストラではあまりうまくいかなかったらしい。クライバーは本当に舞台向きの指揮者だったのですねー。