カルメン(1)メリメの原作

 「カルメン」の原作であるプロスペル・メリメ作の小説「カルメン」はオペラの原作の中でも相当に有名なので、わざわざ紹介するまでもないかもしれないが、オペラからは省かれているディテールでいくつか特筆すべき要素もある。

 

 ドン・ホセはバスク人である。バスクというのはスペインの北部、フランスとの国境にある地方で、スペインともフランスとも違う独自の文化を持っていることで有名である。バスク人は固有の民族で、バスク語は他のヨーロッパの言語とは別系統とされる。インド・ヨーロッパ言語がヨーロッパに定着する以前のケルト系統の言語とも言われており、スペイン語、フランス語その他のロマンス系言語ともゲルマン系言語とも全く別の言葉なのである。つまりスペインにおいてホセはマイノリティかつアウトサイダーだということになる。ジプシーのカルメンも当然ヨーロッパではマイノリティであり、主人公二人ともが実は彼らの社会においてマイノリティであるという点は面白い。ホセの本名はホセ・ナヴァロだが、もう一つ普通のヨーロッパ人には発音できないバスク語の名前を持っている、と小説の中で神父が語っている。

 ただし、物語が書かれた当時すでにバスク地方の者はスペイン語も普通に話し、また「バスク人は先祖代々のキリスト教徒」とホセ自身が言っている通り、ヨーロッパ化されて伝統的かつ保守的な価値観を重んじる地域であった。

 オペラの登場人物の一人ミカエラは、ホセの出身地の保守的で伝統的な価値観を体現している。原作にはミカエラは出てこないが、故郷の女性は肩までの三つ編みをして青いスカートをはいており、故郷ではカルメンのような格好の女性を見たら肝をつぶして十字を切るだろう、とホセは述べている。そのカルメンは原作では「赤い下裳をつけており、短いので白い絹の靴下がむき出しに見える。靴下にはいくつも穴があいている。赤いモロッコ皮のかわいらしい靴は萌えるような濃い紅のリボンで結んである。わざとショールを広げて肩を見せ、はだぎの外にはみ出ているアカシアの大きな花束を見せびらかしている。口の端にもアカシアの花をくわえ、腰を振りながら歩いている」と描写されている。保守的な地方で生まれ育ったホセが、自由人のカルメンと出会って強烈に惹かれてしまい、悲劇が起こる。

 

 原作でドン・ホセはカルメン以外に二人、人を殺している。一人目はまだ軍隊に入る前、物語が始まる前のことで、生まれ故郷のナヴァラで人気があるポームというテニスに似た競技をやっていた最中、ゲームに負けた相手が喧嘩をふっかけてきて、マキラ棒という棍棒で相手を殺してしまった。ホセはそのために故郷を離れなければならなくなり、騎兵連隊に志願したのである。オペラの中でホセの母親が「お前を赦す」と言っているのはこの事を指している。

 (ところで、音楽之友社発行の「カルメン」対訳は、旧版・新版ともにこの部分に重要な誤訳がある。1幕のホセとミカエラの二重唱で、ホセの母親の様子をミカエラが語るところ:

 Et tu lui diras que sa mere 

   Songe nuit et jour a l’absent

   Qu’elle regrette qu’elle espere,

   Qu’elle pardonne et qu’elle attend;

 下線を引いた ”pardonne” は「赦す」の意味だが、訳文はなぜか「我慢している」となっている。  母がホセを赦すという言葉はドラマの中で重要である。ホセは殺人をしたせいで母親に顔向けできないと思っている。ミカエラのこの言葉を聞いたからこそ、母への思いが溢れ出し、次の盛り上がりにつながるのだ。)


 もう一人はカルメンの夫ガルシアである。そう、原作のカルメンは結婚している。ただしジプシー同士の結婚がどの程度、国の法律ののっとったものなのかは不明。ジプシーの間では夫のことを「ロム」妻を「ロミ」と称することが原作に書かれていて、カルメンはガルシアを自分のロムと呼んでいる。

 ホセは密輸業者になった後、ある晩仲間のダンカイレがいる前でガルシアにカードの勝負を申し込む。その勝負がもつれてナイフの喧嘩となり、ホセはガルシアの喉にナイフを突き立てて殺してしまう。オペラでは弱腰に描かれているホセであるが、原作では相当に短気で喧嘩っぱやい男であることがわかる。だからこそカルメンも、自分がホセに殺されて死ぬ運命であると覚悟を決めるのである。

 

 カルメンはマルチリンガルである。ジプシーは国のあちこちを放浪して社会に出入りするためか、色々な言語を自由にあやつっている、とメリメによって書かれている。「たいていの奴はポルトガル、フランス、バスク地方、カタルーニャ、その他、いたるところが自分の故国同然。モール人やイギリス人とさえも話が通じる。カルメンはかなりよくバスク語を知っていた」。故郷の人間以外はまず話すことのできないバスク語でカルメンが話しかけてきた、というところが、ホセのウィークポイントを突いてきたのである。もっともカルメンのバスク語はかなり怪しかったのだが、それでもホセはすっかりほだされてしまった。

 

 原作とオペラの構造面の重要な違いとしては、原作は、作者(メリメと同一人物のような描かれ方をしている)がドン・ホセから身の上話を聞いた内容、という形態で描かれている。メリメ自身は作家でありながら歴史家・考古学者であり、異国の文化の調査に興味があった。人類学の研究に打ち込みながら、実地調査で得た体験をもとにフィクションを書いた。小説にはオペラには存在しない「第4章」があり、これはスペインにおけるジプシーの生態の客観的な描写に割かれている。これも相まって原作のカルメンはオペラに比べてクールで第三者的な視点に貫かれているところが面白い。

 

 次回はプーシキン作「ジプシー」とオペラ「カルメン」の関係性について。