演出助手として参加していた小澤征爾音楽塾「カルメン」が、京都、東京、名古屋公演を終えて幕を閉じた。1月末にまずカバーキャストの音楽稽古があり、2月はダンサーの振付稽古、3月初旬から京都で立ち稽古があったので長期間に及ぶ公演だった。
美術と衣裳はシカゴリリックオペラからのレンタルで、トラディショナルで豪華。闘牛場をかたどった装置は高低のバリエーションがありうまく空間が使われている。色調も絵画のようで美しい。オリジナル演出は往年のイギリス人演出家ジョン・コープリーで(私は偶然にもロイヤルオペラハウスで彼の講義を受けたことがある)、今回はその装置を使ってデイヴィッド・ニースが新たに演出をつけた。
(写真は小沢征爾音楽塾Facebookページより)
カルメン、ホセ、エスカミーリョ、ミカエラ、フラスキータ、メルセデスはアメリカ人を中心とした外国人歌手で、その他の役とカバーキャストは日本人。歌も演技も水準が高く、オケも塾生と呼ばれるオーディション選抜による若いプレイヤー達がよく訓練されていて、日本で観られるカルメンとしては最高水準のプロダクションだと思われる。
カルメンは出演者が多い。ソリストに加えて、合唱60人、助演22人、子供合唱30人、ダンサー8人。合唱シーンも多いので舞台上には100人以上がひしめきあう。助手と通訳を兼務した立ち稽古の怒濤の日々は戦場のようで、細部が記憶にない…。
このプロダクションで特に素晴らしかったのは、Met所属の音楽コーチ、デニス・ジョーク氏がカバーキャストの音楽稽古から本番の楽日までずっと居て、歌手に対して本役もカバーも分け隔てなく綿密に指導を行っていたこと。全体の音楽作りは勿論、小澤氏と、共同で指揮をした村上氏が行うのだが、歌唱における細かい「規律」のような事柄についてはデニスが責任を負っていた。楽譜上の指示をきちんと守ること、フランス音楽の様式、フランス語のディクションなどについて、日々妥協を許さず辛抱強く指導をしていた。おかげで音楽がきびきびとして、アンサンブルが難しい2幕の5重唱なども常に緊張感のある良い演奏だった。コレペティの存在こそはオペラハウスに不可欠なものだ。海外から来る指導者は初日があけたら帰国するのが普通なので、楽日までずっと指導が続くというのは貴重なケースである。私にとっても、イタリアオペラとの様式の違いなど非常に勉強になった。本人に聞いたところ、Metでも音楽コーチはどの公演でも楽日まで参加するシステムだとのことである。ドイツの歌劇場などは必ずしもそうではなく、初日が開けたら後は野放しなこともあるので、Metは音楽のクオリティを保つことに力を入れているのがわかる。
海外の優秀な歌手の稽古風景に接すると、毎回思うことだけれど、自由度が高いのに感心する。彼らは音楽と言葉が完璧に身体に入っていて、演出家から与えられた設定と導線を踏まえながら、その場のインスピレーションで演技にニュアンスを加える。同時に、舞台上で起こる様々なアクシデントにも冷静に対応する余裕がある。ホセ役のチャド・シェルトンは稽古でも全力で歌い演じるタイプで、いつも激しいエネルギーでカルメンに向かっていくので、演技に没入しているように見えるのだが、それでいながら、指揮者が何かの都合で演奏を止めたりすると即座に演技をやめて「あ、そこはそうするんですね、了解!」と普通に対応し、またハイテンションな演技を始める。そうしながらも、本番中、あってはいけないところにある小道具は冷静に正しい方向にどけてくれたりもする。見事としか言いようがない。チャドはなんと今年の兵庫県立芸術文化センター「フィガロの結婚」でバジリオを歌う予定。本人に聞いたら、初役とのこと!(ちなみに今回のカルメンのサンディはケルビーノで出演する。)
このプロダクションは「塾」というだけあってオーケストラも、各セクションにコーチがついて指導を行う。ある日、コーチの一人である某著名管楽器プレイヤーの方がメンバーに個人レッスンをしている所にたまたま居合わせた。ある幕に出て来るその楽器のほんの数小節のソロなのだが、半時間ほどのレッスンで、その短いソロだけをひたすら繰り返し演奏させて指導していたのが感動的で、思わず耳をそばだててしまった。どうやら指導の要点は、短いソロであってもいかに綿密にフレーズ作りをし、責任をもって次の楽器に受け渡すか、という事のようだった。その内容は歌の指導にも共通するものに思え、私は仕事をするフリをしてコーチの言葉をノートに書き留めた。曰く「フレーズの終わりに向かって言いたい事を言い、山をつくる」「オケの次のパートがそれをどう受け取るかを考えて演奏する」「一つのフレーズの中でいかに計算するか」「フレーズを言葉、文章にする」その指導は明確で情熱的だった。こんな風に一流の奏者に直々にレッスンされたことは、若手の奏者はきっと一生忘れないだろう。
さて、私も来年カルメンを演出する予定があります。今回、ごくトラディショナルなカルメンを高水準なプロダクションで体験できたことは非常に良い経験になりました。来年は、世間一般に出回っているカルメンの人物像についてこれまで私が抱えてきた疑問をぶつける「危険区域」のカルメンを作りたいと思っています。