寝取られ亭主を「角が生えた者」と呼ぶ理由

 オペラやシェイクスピア作品などにはよく、自分の妻を他の男に寝取られてしまうことを指して「角を生やす」という表現が出て来る。イタリア語では寝取られ亭主をcornutoと言い、まさに「角を生やした者」という意味である。なぜこういう表現をするのだろうか? その答えが、「カルメン」の勉強の一環として読んだ闘牛に関する専門書に書かれていた。

 スペインでも闘牛が最も盛んなアンダルシア地方では、闘牛は極めて男性的なスポーツと捉えられている。スペインにおける男性性の表現と深く結びついているという。

 闘牛では、牛に対して恐れを示すような臆病な闘牛士は「カブロン」と呼ばれる。カブロンは「山羊野郎」という意味で、これは角を生やした動物のイメージとつながる。

 闘牛においては、人間が牛を支配する。つまり角が生えていない者が、角が生えた者を支配する訳で、角は無能で、他者に支配される者の象徴である。

 スペイン、特にアンダルシアの文化では、男性性を決定づけるものは支配力である。反対に、支配力のない臆病者は性的能力の欠落と結びつけられる。男としての能力に問題があり妻に浮気をされるような男=支配される者、すなわち角を生やした動物、となるわけである。

 闘牛士が下手なパフォーマンスをすると観客は、角や寝取られ亭主に関連した罵声を浴びせることがままある。トレロが真面目にやろうとしなかったり、神経質で臆病な戦いを見せたりすると「お前は牛より角が多いぜ!」とか「牛の角を切って、トレロに渡せ!そいつは角が必要だ」などといったヤジが飛ぶという。

 しかし闘牛の牛は相当に凶暴で、人間よりはるかに強く、いわば男性的な存在だし、牛の角自体も男性器を連想させるものである。その牛を「弱い者」に見立てるのも不思議な気がする。しかしこの本によれば、アンダルシアの伝統的な考えでは、人間の男はただ精力が強いだけというのもだめで、それを意志でコントロールできるからこそ人間だという。

「男らしさには生理的な根拠があると思われている。性格が強いということは『睾丸を持っている』というに等しい。いきいきした男性は性的にも活発なのである。しかし同時に、管理されていない肉体的攻撃性やセクシュアリティは野蛮であり、人間的でないとも思われている (J.R.コルビン『葬儀、闘牛、および1936年の「恐怖」— 南スペインにおける死の弁証法』)。「睾丸を持つ」ことが重要だと強調される一方で、管理されていないセクシュアリティは「野蛮だ」とされている。ここでは人間の男性と動物の牡の違いが見事に浮き彫りにされている。動物はセクシュアリティをコントロールできないのに対して、人間はそれができるのが特徴なのである。

 どうやら、「男であるか、男でないか」の境目は、精力と知性の絶妙なバランスにあり、その差が「角が生えているか、生えていないか」という違いで表されている、ということのようである。

 ちなみに「角が生える」というイメージは地中海文化で古くから広く共有されていたらしいが、シェイクスピアにも盛んに出て来るところを見ると、その頃にはイギリスにも伝播していたという事なのだろう。

 例えばハムレットがオフィーリアに対して言うセリフにこんなのがある。「どうしても結婚したいというなら、阿呆を婿にするがいい。すこし利口なやつなら、世の亭主なるものにはなりたがるまい。それは額に角を生やした化物にさせられることだからな」(福田恒存訳)

 参考文献:ギャリー・マーヴィン著、村上孝之訳「闘牛:スペイン文化の華」平凡社、1990年