新国立劇場「オネーギン」とスタニスラフスキーの「オネーギン」

新国立劇場「オネーギン」とスタニスラフスキーの「オネーギン」

  もう1ヶ月前になってしまうが先月末、新国立劇場「エフゲニー・オネーギン」のゲネプロを観に行った。

 ロシア人演出家ドミトリー・ベルトマン氏による今回の演出コンセプトは「スタニスラフスキーによるオネーギンの演出を復元」ということで、楽しみに観に行った。というのも、私が所有している本 “Stanislavski on Opera”に、スタニスラフスキー自身がオネーギンを上演した際の様子に丸々1章が割かれているからだ。

 


 スタニスラフスキーは19世紀終わりから20世紀初頭に俳優・演出家・演技指導者として活躍した現代演劇の祖で、現在イギリスとアメリカで教えられている演劇システムの根幹を作った人である。しかし彼がオペラにも詳しく、晩年、ボリショイ劇場併設のオペラスタジオを創設し、若いオペラ歌手の育成に情熱を注いだことは、特に日本ではほとんど知られていいないので、以前記事に書いた。

 オペラ演技指導者としてのスタニスラフスキー(1)

 オペラ演技指導者としてのスタニスラフスキー(2)ラ・ボエーム

 オペラ演技指導者としてのスタニスラフスキー(3)ラ・ボエーム2


 スタニスラフスキーはチャイコフスキーとも生前に親交があり、またこの作品がロシアを代表するオペラであったことから、特別な愛着を持っていたようだ。

 

 ベルトマン氏のインタビューによると、彼は過去に7回「エフゲニー・オネーギン」を演出しており、過去の演出では場所をイケアにするなどあらゆる現代的な実験をしたが、8回目にして初心に立ち返ることにしたとのこと。スタニスラフスキーの美術を再現し(ただし当時の資料は写真が数枚残っているだけなので、完全にというわけではない)、彼が自分のスタジオで試していた演技指導法も導入したという。この演出は彼が主宰するモスクワのヘリコン・オペラで2015年に初演されて人気を博し、その後ヨーロッパ各地、アメリカでも上演されているとのこと。

 

 こちらが、新国立劇場の装置の1幕の模型写真(劇場のサイトより)。

 この4本の柱が全幕に使われ、庭のあずま家になったり、モスクワの豪邸の柱になったり、ベッドルームの円柱になったりしていた。

 

 これがスタニスラフスキーの「オネーギン」に実際に使われた、彼の屋敷の広間の写真 (“Stanislavski on Opera”より)。

 

 スタニスラフスキーはこの屋敷を自分の住居兼スタジオ用に手に入れた際、この部屋で、部屋にある柱や家具をそのまま使って「オネーギン」を上演したいと思い、実現させたのである。

 

 

 しかし実際に今回の演出を見て、正直、スタニスラフスキーの舞台の「美術面」を再現することにはそれほど意味がないように思った。

 スタニスラフスキーの時代の舞台美術は、観客を驚かせ、視覚的に楽しませるためのスペクタクルな装置が主流だった。だから、このように屋敷の内部をシンプルに見せるリアリズムの舞台装置というもの自体が画期的だったのである。

 “Stanislavski on Opera” には「オネーギン」の舞台装置について、このように書かれている。

  「そこには、ロシア中央の壮大な風景もなければ、公園も、池も、川も、地平線もなかった。観客を感心させるためによく美術家が舞台を埋め尽くすような、絵になる装置は何もなかった。考えてみると、従来の巨大な装置の中では、役者はなんとちっぽけに見えたことだろう。

 スタニスラフスキーは従来の慣習と全く反対の手法をとった。観客が最初に目にするのは、手に触れられそうなほどリアルな、こじんまりとした平穏なラーリン家の家庭であった。ラーリナ夫人と乳母が眺めている古い公園や、夕暮れなどは観客の想像に委ねられた。」

 

 しかし21世紀の今、舞台美術のスタイルや技術はスタニスラフスキーの時代からはるかに進化している。リアリズムの手法をベースにさらに詩的で幻想的な装置を作ることも可能だし、作品の中心テーマだけを抽象的に表すことも可能である。

 

 今回の新国立劇場の装置で何が問題と思ったかというと、どの場面でも4本の柱が巨大で存在感があり過ぎ、舞台が柱ばかりの印象になってしまっていたことと、導線的に邪魔になっていて、歌手を効果的に動かすのを阻んでいたように思えたことだ。

 それでいて、柱が作品の何かを象徴的に表す役割を果たしていたとも思えなかった。

 

 スタニスラフスキーが彼の時代にやったことがいかに画期的であっても、現在では効果的とは思えない。

 

 ただしそれは美術面のことで、彼がやっていた歌手の演技指導法は今でも感嘆するほど素晴らしく、再現する価値がある。というよりも、こんなに綿密な稽古を行っている劇場は、どこを探してもないのではないだろうか。

 私はプロダクション自体には参加していないので、ベルトマン氏がヘリコンオペラや新国立劇場の稽古場でどの程度スタニスラフスキーの指導法を使ったのかはわからない。

 実際にスタニスラフスキーがどんなに細かく人物造形を行なったか、”Stanislavski on Opera”に書かれているオネーギンの稽古場の様子を抜粋して紹介したい。(続く)