新国立劇場「オネーギン」とスタニスラフスキーの「オネーギン」(2)

1幕1場 ラーリナ夫人と乳母への指導

 

   歌手が舞台上で(オネーギンのリアルな美術に見合うような)シンプルな効果を上げるためには、すなわちリアルな人物として歩き回り、座り、会話し、その舞台で生きるためには、演技、なめらかな体の動き、音楽家としての膨大な訓練が必要だった。この小さな劇場の距離では、観客には俳優の動き全てが見えるだけでなく、ちょっとした目の表情の変化も捉えてしまうからだ。役者は十全なコントロールを持って観客の前に立たなくてはならなかった。(略)

 

 ということで我々は、ラーリン家の前にいる。オペラはタチアーナとオリガのデュエットで始まる。(略)

 夕日が家の柱に斜めにかかっている。ラーリナ夫人と乳母が一日の家事を終え、居間から聞こえてくる娘たちの歌声を聴きながら一息ついている。

 観客の前で座って何もしないというのはとても難しく、大変なスキルを要する。ラーリナ夫人と乳母は、年老いた女性がリラックスしている状態、生活に満足している様子、娘たちへの愛情、「習慣とは幸せと同じくらい良いものである」という信条を、同時に醸し出さなくてはならない。

 それでいて、二人は全く違う種類の人間であることも示さねばならない。ラーリナは家の女主人であり、19世紀の貴族の家庭で厳しく躾けられた人間らしいマナーと風情がある。乳母は農民上がりで、心が温かく、親切である。

 このような、一見してわからないほどの細やかな態度の違いを出すためにスタニスラフスキーの最初のレッスンは当てられた。

 ラーリナ夫人は古いアームチェアに座り、乳母は舞台前の地面に立っている。

 「座るときは、体が完全に休んでいて楽に見えなければならない。体の無駄な力を全部抜きなさい」スタニスラフスキーは強調した。

 歌手は色々な姿勢を試して、体を状況にそぐわせるようにした。

  「だが」スタニスラフスキーはラーリナに向かって、「どんなにリラックスしていても、長年の習慣として、背筋は伸ばして、頭は高くキープしている。彼女がリラックスしていることは、肘の曲げ方と、手首と手の柔らかさに現れる。乳母は背筋が曲がっていて、どんなにリラックスしていても、長年労働で硬くなった手足はあまり伸びない。

 ラーリナは膝から片眼鏡を持ち上げるとき、目に持って行くとき、何かを指す時にそれを使って指し示すやり方に、どんな生まれを育ちをしたのかが現れる。では、片眼鏡をかけて、私がまるで全くの見知らぬ人かのように見てみなさい。次に、それを使って公園の中の何かを乳母に向かって指してみなさい。なんとなく手で弄んでみて。片眼鏡は、自分の手の一部みたいなものだ。習慣としてのアクセサリーなんだ。タバコを吸う人にとってのタバコのように」

 「では、娘たちの歌に耳をすませて。彼女たちを愛している? 誇りに思っている? ただし、自己満足に見えたり、気取った感じに見えてはいけない。貴族の家庭で育ったから、感情の表し方は控えめだ。特に好きなメロディのところに来た時、乳母とどんな風に目を交わす? 自分も小さい頃に歌った歌のはずだ」

 乳母に向かって、彼は 「彼女にとっては、窓に向かって体全身を向けるのがどんなに難儀だと思う? 相当な労働だ。背中に痛みが走る。腰があまりに硬いので、体の向きを変えるのは大変だ。では、体の向きを変えて、家に向かって歩いてみて。いやいや!そんなに素早くできるわけがない。老人はしばらく一定の形で座ると、背中や脚が固まるんだ。徐々にでないと動かせない。そっと背中を伸ばして、ゆっくり動かして、そしてようやく歩き始められる。そして、一歩一歩も、両足が地面に着いてから次の足を出せる。」

 

 (という感じで延々と続く。この二役が一言でも歌い始めるまでに、どれほど細かい演技指導がなされているか!)

 

 (2幕のラーリン家の舞踏会の場面では、合唱への演技指導が綿密さを極める。合唱団員も一人一人こんなに細かく人物が作れたら、演じる方も観る方も楽しいに違いない)

 

  演出助手の主導により、舞踏会の出席者の全てについて、生い立ちと人物像が作成された。プーシキンの小説から取られた人物もいたが、合唱団員自身の創造によるものもあった。初演の時の人物造形が非常によくできたため、再演以降は、初演でその役を演じた歌手の名前でその役が呼ばれるようになったくらいであった。場面の登場人物(合唱団員)は全部で45人いた。

 女性には様々なグループがあった。オリガとタチアーナの友達(若い女性たち)、それほど若くない人たち、老女、噂好き、あらゆる種類の取り巻き。それぞれの人物が、与えられた役割に合った外面的・内面的特徴を作るように指示された。すなわち ①これまでの人生 ②性格、クセ、傾向 ③社会的地位 ④舞踏会の他の人たちとの関係 ⑤人生の目的 ⑥外見 ⑦年齢  である。

 例えば、女地主のドンディッシュ夫人(名前は歌手自身の名前)。人生の大半をモスクワで過ごし、派手な生活をしてきた。現在は、ある用事のために2年間だけこの村に住んでいる。彼女の相続人である姪が一人いて、フィネムーシュ氏に養育されている。姪には、村にいるのは健康のためだと説明している。夫はモスクワに残っている。

 ドンディッシュ夫人の初恋の相手はヴァーシャ叔父だった。彼は今は年老いた地主で、舞踏会に来ている。夫人はカードゲームが好きで、男性と戯れるのも好きである。本気にはならないが、ちやほやされるのが好きなのだ。彼女は社交なしでは生きていけない。モスクワの友人たちとはよく手紙のやり取りをしているので、モスクワの噂話を持ち込むことができる。ラーリナ夫人のことは手厳しく観察しているが、接するときは少し冷たいながらも物腰は良い。彼女はすべての人を見下している。カリコーヴァ夫人のことが特に嫌いである(その人も舞踏会に来ている)。彼女は姪を結婚させたがっている。

 姪(ゲラルディ夫人が演じている)は「モスクワの優美」と謳われており、舞踏会では注目の的である。村では叔母の家で育ったが、現在モスクワに住んでいる。まだ社交界にはほとんど出ていない。甘やかされて育ち、モスクワ育ちなのを鼻にかけていて、自分はオネーギンと対等だと思っている。明るく、ちょっとわざとらしく、コケティッシュである。田舎の娘たちが彼女の周りに群がっている。洗練された若い女性と思われている。その彼女に嫉妬しているのがプスチャコーヴァ嬢である。オネーギンを除けば、プスチャコーヴァはペトシュコフが最高のダンスパートナーだと思っている。


(という感じで続く。こうやって何ヶ月もかけて舞台にかかった「オネーギン」はどんなにイキイキした上演だっただろう。今はどこの劇場でも研修所でも、ここまで時間をかける余裕がなかなかない)