先月、講師をしている洗足音楽大学声楽科のオペラ実習クラスで「ラバン・ムーブメントシステム」を使ったワークショップを行いました。
ラバンの理論はイギリスの演劇学校で教えられているメソッドの一つで、ルドルフ・フォン・ラバン (1879 – 1958) という人が人間の動作と態度を観察した中から開発した舞台パフォーマンス用のムーヴメント理論です。ごく簡単に言うと、ある地点から別の地点に移動する際に
1)移動の経路が「直接的か・非直接的(柔軟)か」
2) 動きが「速いか・遅いか」
3)動きの圧力・重力・強度が「強いか・軽いか」
4)動きの流れが「束縛されているか・自由か」
という選択肢の中から選んで組み合わせることによって動きにバリエーションを付ける方法です。
私はRADA(英国王立演劇学校)の教師陣の通訳を長年する中でこのメソッドを学んだのですが、これは演劇よりもオペラに有効なはずだと思ってきました。というのもオペラでは人間の動きがリアルタイムではなく、音楽に合わせて引き延ばされなければならないので、この「自然ではない間尺」をどう埋めながら動くかというテクニックがストレートプレイよりも重要だからです。
授業ではもう少しシステムを単純化して、「直接的・非直接的」「速い・遅い」「重い・軽い」という要素に絞って行いました。
「直接的か、非直接的か」:(Aの地点からBの地点に移動する際、まっすぐ行くか、寄り道をしながら行くか)
速いか、遅いか:
重いか、軽いか (図形では表しにくいですが)
この3要素を意識的に組み合わせていくことにより、キャラクター造形を自発的に行えるようになります。
人間は誰しも、持って生まれた性格、生まれ育ちや年齢、職業、体格などによって、その人の「基本的な動き方」があります。
例えば、「フィガロの結婚」のスザンナは若い女性で、職業は伯爵夫人付きの召使い、そして働き者ですから、ほとんど一日中座る暇もないほどあちこち動き回って彼女をサポートしているでしょう。目的地に向かってはまっすぐ行かなくてはなりません。するとスザンナの基本の動きは「直接的・速い・軽い」という事になります。
対して伯爵夫人は、スザンナのように直接身体を使って働くことはありません。身の回りのことは召使いにやってもらい、社交の場において自分の姿を周囲に見せることが一番の仕事。しかも物語の初めでは彼女は伯爵との関係について思い悩んでいるので、基本の動きは「非直接的・遅い・重い」になるかと思います。
もちろん、場面や状況に応じてその人物の動きは変わってきます。普段ゆっくり移動する人でも、切羽詰まった場面では速く動く場合もあります。仕事の最中は直接的に動くスザンナでも、オペラの冒頭でヴェールを試着する時にはヴェールの軽さと肌触りを楽しみながら、非直接的に動くことでしょう。また伯爵を誘惑する時はスピードがゆっくりになるはずです。いずれにしても意識的に動きを選択して組み合わせることにより、歌手が自分で考えてバリエーションをつけながら人物造形ができるのがこのシステムの良いところです。また、自然に動くだけではもたない音楽の間を埋めるテクニックとしても有効です。
演技経験の浅い人や動きに自信のない人は、舞台上のある場所から別の場所へ自然に移動することさえもおぼつかない事があります。そういう人でも、しばらくラバンを使ったエクササイズをやってみるだけで、空間の中で動くことに抵抗がなくなってきます。
本来はラバンは時間をかけてゆっくり体得していかなければならないものですが、大学の授業の枠内では時間が限られているため、私が考案した簡単なエクササイズを通して短時間でこのシステムを利用して動いてもらうことをやってみました。
結果としては、オペラ実習1年目で演技経験がほとんどない生徒も、エクササイズを進めるうちに動きが躍動的になり、それぞれに個性が出てきて、その役柄らしい動きになってきました。
去年ロンドンに滞在中はロイヤルオペラハウスとギルドホール音楽学院の授業では目にする機会はありませんでしたが、ENO(イングリッシュナショナルオペラ)のヤングアーティストプログラムでは訓練の一環として取り入れられているとのことでした。
参考資料:
Brigit Panet, Essential Acting, Routledge Tayler & Francis Group, 2009.