「ウナ・コザ・ラーラ(珍しい出来事)」というオペラ名を聞いてピンとくるだろうか。モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の2幕フィナーレ、晩餐のシーンで舞台上のバンダが演奏する曲は、実はマルティン・イ・ソレールという作曲家が書いたこのオペラから引用されたものだ。この曲が流れると、ジョヴァンニが「ブラーヴォ!『コザ・ラーラ』だ」と喜ぶ。
この場面には当時の客席も大いに沸いたことだろう。何しろ「コザ・ラーラ」はその時ウィーンで大ヒットしていたオペラなのだから。
現在では上演されることはめったにないが、モーツァルトがウィーンで主要なオペラを発表していた時期、マルティン・イ・ソレールはモーツァルトを上回る人気があった。「コザ・ラーラ」もちょうど「ドン・ジョヴァンニ」が作曲された年に爆発的な人気を誇っていた。
Andrew Steptoe著 The Mozart-Da Ponte Operas に興味深いデータがある。
表①は、モーツァルトがオペラを発表していた時期にウィーンで各作曲家のオペラが上演された回数である。
人気ナンバー1はパイジェッロで、最も多作な作曲家でもあったが、マルティン・イ・ソレールも上演回数ではほぼ常にモーツァルトを上回っていたことがわかる。
表①
作曲家 |
1785 |
1786 |
1787 |
1788 |
1789 |
1790 |
1791 |
パイジェッロ(1740 -1816) |
46 |
31 |
37 |
18 |
0 |
32 |
41 |
サリエリ (1750-1825) |
17 |
22 |
5 |
30 |
28 |
20 |
10 |
マルティン・イ・ソレール (1754-1806) |
0 |
13 |
31 |
12 |
42 |
32 |
8 |
モーツァルト (1756-1791) |
0 |
9 |
0 |
15 |
11 |
25 |
3 |
(ちなみに表には含まれていないが、当時ウィーンには他にもモーツァルトより人気の作曲家がいた。1782年~1791年の作品上演総数では、モーツァルトはようやく7位。パイジェッロ、サリエリ、マルティン・イ・ソレール、チマローザ、グリエルミ、サルティ、モーツァルトの順である。)
次に、表②は、上記5人の作曲家の代表的な作品がブルクテアター(当時のウィーンの主要オペラ劇場)で上演された回数である。
表②
オペラ |
1784 |
1785 |
1786 |
1787 |
1788 |
1789 |
1790 |
1791 |
テオドーロ王 (パイジェッロ:1784年8月初演) |
14 |
9 |
11 |
2 |
0 |
0 |
19 |
1 |
ウナ・コザ・ラーラ (マルティン・イ・ソレール:1786年11月初演) |
– |
– |
4 |
17 |
2 |
19 |
9 |
3 |
フィガロの結婚 (モーツァルト:1786年5月初演) |
– |
– |
9 |
0 |
0 |
11 |
15 |
3 |
ディアナの樹 (マルティン・イ・ソレール:1787年12月初演) |
– |
– |
– |
9 |
10 |
19 |
21 |
5 |
トロフォニオの洞窟 (サリエリ:1785年5月初演) |
– |
7 |
13 |
5 |
1 |
0 |
0 |
0 |
こちらを見ても総上演回数では「コザ・ラーラ」が54回なのに対し、同年初演の「フィガロ」は38回。
しかも。初演でそれなりにヒットした「フィガロ」が2年目に全く上演されなかったのは、「コザ・ラーラ」の圧倒的人気によって締め出されてしまったからなのだ。
実は面白いことに、「コザ・ラーラ」の台本作家は「ドン・ジョヴァンニ」と同じダ・ポンテだった。それだけではない、ダ・ポンテは表②の「ディアナの樹」(マルティン・イ・ソレール)の台本も書いている。さらに彼はサリエリにも台本を提供していた。
当時、作曲家の間で引っ張りだこの売れっ子台本作家だったダ・ポンテ。彼にとってモーツァルトは、自分に名声をもたらしてくれる共同作業者のうちの一人に過ぎなかったのである。しかもダ・ポンテの自伝の引用を読む限り、モーツァルトが他の作曲家よりも優れていると彼が考えていたかどうかは甚だ疑わしい。
「コザ・ラーラ」の成功について、ダ・ポンテは大喜びでこのように書き残している。「特に女性の観客たちはコザ・ラーラ以外のオペラには目もくれず、コザ・ラーラのスタイルでおめかしをし、マルティンと私こそは真の特別な芸術家だと信じているようだった。我々は二人ともその気になれば円卓の騎士よりも数多くのアバンチュールを楽しむことができただろう。…甘ったるいラブレター、謎めいた詩つきのプレゼント、馬車乗りや舞踏会、晩さん会への誘いがひきも切らず…」(The Mozart-Da Ponte Operasより抜粋)
モーツァルトは憤懣やるかたない気持ちだったに違いない。大した価値のない作品が大ヒットする一方で、真の傑作である(はずの)自分の「フィガロ」が憂き目をみている。しかも協力者である台本作家はライバルと組んだ作品の成功で浮かれている…。
そんな中赴いたプラハで、モーツァルトは「フィガロ」が大人気なのを見て気を取り直し、次の作品「ドン・ジョヴァンニ」に着手する。そして皮肉たっぷりに、晩餐のBGMに「コザ・ラーラ」を引用した。同じシーンでその後に「フィガロ」も引用している。どちらの曲が優れているかは、時が明らかにしてくれるだろうと信じて。
モーツァルトの当てこすりが通じないダ・ポンテは単純に喜んでいただろうか。
参考文献: Andrew Steptoe, The Mozart-Da Ponte Operas: The Cultural and Musical Background to Le nozze di Figaro, Don Giovanni, and Cosi fan tutte, Oxford University Press, 1988.