演出家による歌の個人レッスン

 Young Artsits Programmeでは、演技のクラスやレッスンはstagecraft sessionと呼ばれている。「演技 (acting)」という狭義ではなく、歌い手として舞台を効果的に使う技術、という総合的な意味を込めていると思われる。

 中でもよく行われているのが、演出家もしくは演技コーチと歌手の1対1のコーチング。出演する予定の役の準備や、外部のオペラハウスのオーディション準備のためにやる。これをやると歌の表現が劇的に変わり、単に綺麗な声でメロディをなぞるのではなく、人物の意図や感情がはっきりと伝わる歌になる。逆に言えば、単に声がいいだけではオーディションでも評価されないということだ。

 今年の5月にYoung Artists Programmeに挨拶に来た日、ちょうど演出家カスパー・ホルテン氏による個人レッスンをやっていて、見学させてもらうことができた。カスパー・ホルテン氏は現在ロイヤルオペラハウスのオペラ部門ディレクターで、2013年シーズン新国立劇場「死の都」のオリジナルプロダクションを演出した人でもある。

 その日は歌手がオーディション向けに準備中の曲を持ってきた。ホルテン氏は最初に「オーディションでは普通、演技なしで立って歌うだけだが、それでも一度、立ちを付けて動いてみる段階を経ておくと表現が変わるから」と言った。そしてまさにそれを目撃することになった。

 1人目はテノールで、ドニゼッティ「ファヴォリータ」1幕、フェルナンドのアリア。修道士フェルナンドが、修道院長である父親に、美しい少女に恋をしてしまったと告白する場面。

 「オペラの設定は何世紀も昔のものが多くて、現代人の我々からすると状況を身近に感じづらいことがある。その場合は現代の身近な状況に置き換えて考えるといい。例えばこのアリアだったら、他に好きな女性ができたと妻に告白する場面と考えてみたら」

 まず普通に一度立ったまま歌った後、イスを二つ並べて父親役の人に座ってもらい、その隣に座って歌い始める形にした。

 「父親役の人は、簡単に反応しないようにして。目線を合わせないで。ほら、父親が黙ったままだと、告白がますます困難になるでしょう。彼はその障害に向かっていかなくてはならないんだ。」フェルナンド役は立ったり、歩いたり、少しずつ動きをつける。修道士としてあってはならないことを告白しなければならない悲痛さと、瞬間ごとの意図の変化がだんだんはっきりしてきた。

 

 2人目はソプラノ「ワリー」のアリア。「このオペラはアリア以外は全然知らないんだよね」とホルテン氏(私も…)。「でも要約すると馴染んでいた場所を後にして旅立つということがテーマだから、それを具体的にやってみよう。」ホルテン氏は部屋のあちこちに本や服を、部屋の端に空のカバンを置くように指示した。歌い始め、主人公はイスに座っている。そこから決意をして立ち上がり、歌いながら部屋のあちこちに散らばった物を集め、旅行カバンに詰めていく、という動きをつけた。

 曲のテンポがゆったりしているので、歌い手の足取りはつい曲にのっかってのんびりと歩いてしまう。「曲のテンポに逆らうようにして。取りに行くと決めたら、その速度で目標の物に向かって歩いて。」「一つ一つの物に対して、どんな記憶、思い出がある? 拾う時にそれを考えて」

 拾う物を部屋のあちこちに置いたので歌手は必然的に空間を大きく使うことになった。そこにある物に対する思いと、これから向かう将来に対する思いが違う方向に表現され、立体的な歌になっていった。

 

 

 よくオペラの稽古で指揮者が「色を変えて」と言う。色を変えるというのは抽象的な言い方だけれども、フレーズや単語に込める意図を変化させれば結果的に色は変わる。その曲で置かれた人物の状況、ひとつひとつのフレーズの解釈、意図、などを演出家と共に考えることによって、表現のいろいろな可能性が広がる。これは日本でも是非取り入れたらいいと思う。