表現のコーチング:糸を紡ぐグレートヒェン

 

 かの有名なシューベルト作曲「糸を紡ぐグレートヒェン」。

 この曲の重要なポイントは言うまでもなく、歌詞がゲーテの戯曲「ファウスト」のテキストから直接抜き出されたものだということである。戯曲の第一部「グレートヒェンの部屋」でグレートヒェン(正式名はマルガレーテ)がファウストのことを切々と想うシーンの独白が、そのまま歌詞になっている。そのため、歌う時はファウストのストーリーとマルガレーテという人物のことを理解した上で歌わなければならない。そういう意味ではオペラのアリアと同等に考えることができる。

 アリアを歌う際に表現を深める上で重要なのは、

・その人物がその歌を歌うに至るまでの「前状況」、つまりそこまでにどのような事が起きたかを把握する

・その人物はどういう人物か。歳は? 生い立ちは? 性格は?

・上記を把握した上で、それが楽譜上にどのように反映されているかを調べると同時に、楽譜に書いてあることから逆算して、その人物がどういう状態だったらその表現になるかを考える。

 

 「前状況」について。

グレートヒェンがこの独白をしゃべる部分までの「ファウスト」の物語を要約すると、悪魔メフィストと契約を結んだファウストが街でマルガレーテという純朴な少女を見かけて魅了され、誘惑しようとする。初めは驚いて抵抗したマルガレーテも、ファウストの強引さに徐々に心を赦し、ついにはキスを交わして彼のとりこになってしまう。しかしファウストは罪悪感に駆られていったん彼女から距離を置く。 

「糸を紡ぐグレートヒェン」の歌詞は、この、急に姿を見せなくなってしまったファウストに狂おしく恋焦がれるグレートヒェンの独白である。(この後、ファウストとマルガレーテは肉体的に結ばれ、マルガレーテは身ごもるが、ファウストはマルガレーテを捨てる。マルガレーテは子供を殺した罪で牢獄に入れられる。)

 

 

「マルガレーテという人物」について。

 マルガレーテの年齢ははっきりとは書かれていないが、ファウストが「14歳にはなっているだろう」と言うところを見ると10代半ばくらい。彼女が自分の生い立ちをファウストに対して説明する場面によると、彼女は小さな家に母親と二人でつましい暮らしをしている。父親は何年も前に死んでしまった。女中はいなくて、彼女が台所仕事や家の掃除、縫い物など家事のすべてをこなしている。金銭的に全く余裕がないわけではないが、母親が厳しいため贅沢はできない。兄は兵隊で、妹もいたが小さい時に死んでしまった。その妹も、母親が当時病気をしていたため、生きていたころはマルガレーテが世話をしていた。

 話の内容からすると、おそらくマルガレーテは特定の男性と親しくしたことは今までになかった。素朴で世間知らずな少女である。

 本気になってしまったマルガレーテは、恋の炎に対して全く無防備だ。夢中になったとたんに相手は姿を消し、連絡もなくなってしまった。彼女の混乱と焦燥はいかばかりか。好きな人から何日もメールが来なくて気が狂いそうになるのと同じだが、初恋ならなおさら、その絶望感は想像に余りある。

 

 楽譜を見てみる。

 曲全体を貫いているのは、糸車の回転を表現するピアノ伴奏の16部音符の反復メロディである。これは同時に、彼女の「堂々巡り」な心理的状況を暗に表している。このメロディは曲の冒頭から始まっており、すでにマルガレーテは何時間も前から、ひょっとすると何日も前から、こんな風に糸を紡ぎながら堂々巡りの思考に陥ったままなのかもしれないと思わせる。彼女の独白は、きっと今初めて口にするものではない。もう自分でも嫌になるほど、ずっと同じ思考に捕らわれたままなのだ。

 

 テキストはこのように始まる。

 

 

  Meine Ruh ist hin,

  Mein Herz ist schwer,

  Ich finde, ich finde sie nimmer und nimmer mehr.

  Wo ich ihn nicht hab, ist mir das Grab,

  Die ganze Welt ist mir vergällt.

  Mein armer Kopf ist mir verrüct,

  Mein armer Sinn ist mir zerstückt.

 

  私の安らぎは消えてしまった
  心は重い
  それ(安らぎ)は決して、決して見つからない
  あの人がいないところは 私にはお墓

  全世界が 私には厭わしい
  私のかわいそうな頭は 狂ってしまい

  私のかわいそうな心はずたずた

 

このテキストを一見して気が付くのは、使われている語彙がとてもシンプルなこと。それもそのはず、マルガレーテはちゃんとした教育も受けていない少女なのだから、自分の苦しみを表現するのに小難しい言葉など使えるはずもない。彼女は詩人ではないのだ。これが、人生で初めての狂おしい辛さにもだえる彼女が表現できる精一杯の言葉なのである。歌う時は、一つ一つの言葉を「この言葉しか見つからないけれど、これじゃとても言い表せない」と思って歌わなければならない。

 

 

 冒頭のダイナミクスはピアニッシモである。糸紡ぎのか細い音を表していると同時に、マルガレーテが爆発しそうな感情をなんとか抑えている様子が想像できる。見知らぬ男性との恋は母親にも、誰にも打ち明けられるものではないからだ。言葉を進めるにつれて感情が高ぶる。Ich finde, ich finde… からクレッシェンドしてフォルテに。

 このパターンは毎フレーズ繰り返される。フレーズの頭は毎回ピアニッシモで、フレーズが進むと共にクレッシェンドする。彼女は必死に感情を抑えてそっとつぶやき始めるが、どうしても高ぶってきてしまうのだ。

 

 歌詞はまた冒頭に戻る。

 

  Meine Ruh ist hin,

  Mein Herz ist schwer,

  Ich finde, ich finde sie nimmer und nimmer mehr

 

  私の安らぎは消えてしまった
  心は重い
  それ(安らぎ)は決して、決して見つからない

 

 

これは彼女にとってきっと数百回目の堂々巡りだ。ここで彼女は自分で自分にうんざりする。そこで視線を移して、窓の外に目をやる。しかしそこに見えるのも彼の姿の亡霊だけである。

 

  Nach ihm nur schau ich

  zum Fenster hinaus,

  Nach ihn nur geh ich

  aus dem Haus

 

  彼を求めて ただ
  窓から外を眺める
  彼を求めて ただ
  家の外に出る

 

  Sein hoher Gang,
  Sein’ edle Gestalt,
  Seines Mundes Lächeln,
  Seiner Augen Gewalt,

 

  彼の立派な足どり
  彼の高貴な姿

  彼の口元のほほえみ

  彼の眼の力

 

調がdurになるこの部分で、「彼の」「彼の」と何度も繰り返すのは無視できない。

歌う時には、毎回 “sein” に違うニュアンスを持たせると、ファウストを想うマルガレーテの気持ちがより鮮やかに表現できる。

  Und seiner Rede
  Zauberfluß,
  Sein Händedruck,
  Und ach, sein Kuß!

  そして彼がしゃべる時の
  魔法の流れ
  彼が握りしめてくれた手
  そしてああ 彼のキス!

 

「キス」と言うメロディの頂点でフェルマータになり、ピアノの反復リズムが止まる。

この” Kuß!” の音がもう、絶妙である。(シューベルトは天才だ!)メロディの流れでいけば、ここの「キス」の音はA (ラ)まで上がったほうが自然で盛り上がるし、解放感がある。しかしシューベルトは A より一音低く、解放に至らない、苦しげなG (ソ)の音を当てた。つまりマルガレーテはキスで全てを得なかった。体が燃え上がったまま放置されてしまったのだ。このGの音で存分に彼女の葛藤を表現できる。

 

そしてまた彼女は堂々巡りに戻る…

繰り返しも3回目。

 

  Meine Ruh ist hin,

  Mein Herz ist schwer,

  Ich finde, ich finde sie nimmer und nimmer mehr

 

  私の安らぎは消えてしまった
  心は重い
  それ(安らぎ)は決して、決して見つからない

 

次に、曲が盛り上がるにつれ、詩の内容はよりエロティックになっていく。

 

  Mein Busen drängt
  Sich nach ihm hin,
  Ach dürft’ ich fassen
  Und halten ihn,

 

  私の胸は
  彼へと急き立てられる
  ああ、許されるなら彼をつかまえて
  抱き締められたら

 

Mein Busen「私の胸」のところだが、前にどこかで読んだ資料によると、ゲーテの初稿では「胸」ではなくて「下腹部」という意味の言葉だったそうである。より明確に性的な意味が込められていた。

 

  Und küssen ihn,
  So wie ich wollt’,
  An seinen Küssen
  Vergehen sollt’

  An seinen Küssen
  Vergehen sollt’

  An seinen Küssen
  Vergehen sollt’

 

  そしてキスできたら
  思うまま、思い切り
  たとえ彼のキスで
  消えてしまっても

  そしてキスできたら
  思うまま、思い切り

  彼のキスで
  消えてしまっても

 

この”vergehen” という言葉は、気絶するという意味もあるが「イってしまう」という意味もあるらしい。2回目に”vergehen”と言う時は、先ほどの「キス」では上がらなかったAまで音が上がっている! 

ピアノでは毎回小節のあたまがスフォルツァンド。しかも2回フレーズを繰り返す。ファウストに抱かれたくて、抱きしめたくてたまらないマルガレーテ。

 

そして我に返るが、戻った先はまた堂々巡り。

このまま永久に繰り返されそうな余韻を残して。

 

 

  Meine Ruh ist hin,

  Mein Herz ist schwer

 

  私の安らぎは消えてしまった
  心は重い

 

いやーしかし、よく見れば見るほどすごい歌です。シューベルトはたった17歳でこの歌を書いた。一度恋に落ちたらおそらく男よりも激しい女の状態というものを、いったいどうやって知ったんでしょうか??