魔笛演出ノート

魔笛演出ノート

 「魔笛」のストーリーには「閉じ込められたり」「解放されたり」という瞬間がいくつもある。例えばパミーナはザラストロの国で囚われの身になっているし、途中でパパゲーノと一緒に奴隷たちに捕まりそうになる。タミーノが叩く三つの門は固く閉ざされている。タミーノとパパゲーノは半ば強制的に試練を受けさされ、パミーナと口をきくことも許されない。そういった追いつめられた状況は笛や鈴の力によってふわっと解ける。今回の「魔笛」では、それを、ショッピングモールや銀行などで人の整理に使われる「ポールパーティション」で表すことにした。パーティションの配置を十数パターン作って場面の意味を出すと同時に、人物たちがベルトを開閉する動作によって、「人間関係の断絶」や「解放」を表した。


「女王様はあなたをお許しになりました」

 

 


モノスタトスと奴隷に捕らわれるパミーナ


モノスタトスと奴隷に追いつめられるパパゲーノとパミーナ


母と娘の断絶



  あらゆる解釈が出尽くしている「魔笛」を今さらどう料理すれば良いのか。この荒唐無稽なファンタジーを、いったいどういうコンセプトの元に具現化するか。演出プランを考えるにあたり、とにかく改めて台本を読み直すことにした。

 まず気がついたのは、夜の女王の国もザラストロの国も、美点も欠点もあるという意味ではあまり変わりがないということ。

 夜の国は情念に支配されているが、一方でダーメたちが「嘘をつかず、憎しみ。悪口、腹黒の変わりに愛と友好を」と歌うなど、ザラストロの国の標語と見分けがつかない崇高な事を言ったりする。また、鈴や笛といった、物語の核である宝物は夜の国に所蔵されている。タミーノの旅をガイドするクナーベたちも夜の国から出発する。夜の国は色々な大事なものを所有しているのである。

 ただし夜の女王もダーメたちも、自分たちで宝物を使いこなすことはできない。タミーノやパパゲーノといった男性がそれを使って行動することによって初めてそれらは魔力を発揮する。

 クナーベたちについても考えてみると不思議だ。実際にタミーノを導く際、彼らは夜の女王側に立ってザラストロを倒すための助言をするわけではない。「平静、我慢、沈黙を」という彼らの忠告はザラストロ側の教義である。かといって彼らはザラストロ側の存在という訳でもない。タミーノが人間として成長するための手助けをする存在である。そういう童子たちが夜の国から出発しているというのは、夜の国が愛や理性や勇気といった高貴な概念の可能性だけは内包しているという事を示唆しているが、しかし夜の女王やダーメたち自身だけではクナーベの存在を生かすことはできない。男性の行動こそがクナーベを顕在化する。夜の国が所有するのはどれも、精子に突き破られなければ永久に生命体にはなり得ない卵子である。女性とはそういうものかもしれない。

 台本を読んでいて、いつだったかFacebookに外国の知り合いが書き込んでいた英語のジョークを思い出した。「女性はかけ算の生き物だ。精子をあげれば赤ん坊をくれる。家をあげれば家庭をくれる。食べ物を持ち帰れば料理をくれる。笑顔をあげれば心をくれる。女性は与えられた物に掛け算して拡大するのだ。だから気をつけろ、いいかげんな物を与えるとクソがどっさり返ってくる」なかなか真理をついている気がする。

 

 

 一方のザラストロの世界も決して完璧ではない。ザラストロの世界は極めて男性的な社会である。ここではまず理念が最優先する。ザラストロは正しい事ばかり言う。それゆえ教団の者たちは彼に逆らうことはできない。しかしそれでは人間は息苦しい。ザラストロと信者たちは「彼ら(試練を受ける者)が途中で倒れても、美徳がそのまま歩み続ければ何よりの報い」と歌う。つまり人の命よりも美徳が大事。まるで特攻隊である。それに、ここでは体罰が賛美され、奴隷が使われ、黒いモノスタトスは差別されて恋愛も赦されず、女性蔑視は際立っている。ザラストロは善意溢れる独裁者。そこは経営方針や標語が壁いっぱいに張り出された企業のようである。

 


 タミーノとパパゲーノは、夜の女王側に取り込まれたり、ザラストロ側に取り込まれたりする。ポールはそれぞれの勢力の象徴。


 1幕7番のパミーナとパパゲーノの二重唱で、二人は「男と女は神にまで至る」と歌う。男と女が平等の存在であるという考えは、啓蒙思想も、当時としては進歩的だったフリーメイソンの教えさえも超越した革新的な価値観である。フリーメイソンは女性の加入は認めていなかった。(塩山千仞著「魔笛 文明史の劇場」)

 つまりこの歌で歌われているのはモーツァルトとシカネーダーの独自の思想なわけだ。

 

 タミーノはザラストロの国の試練にパスしたから勝利するのではない。タミーノとパミーナは最終的に、二人で一緒に死への恐怖に立ち向かうことを、二人で決めた。(パミーナはザラストロの国においては、女性であるが故にそもそも試練を受ける権利さえ与えられていなかった。)だからこそ昼の世界も夜の世界も崩壊して、二人の独自の価値観によって新しい未来がやってきた。私はそのようにこの話を捉えることにした。

 思えば、モーツァルトも生前はあらゆる既存の価値観と闘わねばならなかった。保守的で厳格な父親、音楽家を足蹴にするザルツブルクの大司教、宮廷のポリティクス、移り気な聴衆、新しい音楽への無理解、等等。モーツァルトの音楽を真の意味で理解できた人は彼の生前にはほとんどいなかった。しかし、今では彼の音楽はこれほどまでに崇拝されている。彼が理想とする聴衆は未来にちゃん存在したのである。タミーノとパミーナも、自らの決断で独自の価値観を打ち立てたからこそ未来が開けたのだ。

 

 そしてクナーベたちは、タミーノとパミーナが様々な挑戦に打ち勝って一緒になれた暁に生まれてくることができる未来の子供である、という事にした。だから彼らは真剣に父と母を応援する。自殺しようとするパミーナを必死で止める。ここのパーティションの形は子宮をイメージした。

 

 パパゲーノが夢見るのは、ごく平凡な家庭である。仕事から帰ると可愛い奥さんが家で待っていて、子供達がいて・・・  イメージは昭和の平凡な幸せな家庭。志村けんの「夫婦コント」とか、欽ちゃんの番組に出て来たような。

 

 

 試練である「火」と「水」は恵みをもたらすものでもある。

 

最後にポールは全てなぎ倒され、人々を隔てていたあらゆる障壁が消え去る。例えば大災害の直後に、今まで口をきいたこともなかった隣人や職場の人と急に団結するみたいな連帯感。

 

しかしそんなユートピアはほんの一瞬で、結局しばらくすると人間は秩序を求め始め、古い価値観が復活し、しがらみや利権にがんじがらめになっていく・・・

 モーツァルトの音楽はエンディングがとてもあっさりしている。完全なハッピーエンドでも不幸でもなく、「薄日の差す曇り空」という雰囲気の幕切れにできるから好きだ。