小澤征爾音楽塾「カルメン」のカバーキャスト音楽稽古が先週1週間あり、小澤氏と共にMetの音楽コーチが来て、音楽づくりとディクションをみっちり行った。特にフランス語のディクションの綿密な訓練を受ける機会はめったにないので、フランス語特有の各母音の発音の仕方や、リエゾンの仕方、フランスの楽曲の特徴など、自分にとっても大変勉強になった。
オペラの難しくも楽しいところの一つは色々な言語と取り組まなければならないことで、通常は言語コーチの指導も入って出来るだけネイティブに近い発音で歌うことが求められる。小さいプロダクションだとその予算がつかず、ディクションは個人の責任に任せられることも多いが、正確にその言語を発音する努力をおろそかにしてはいけないのがオペラだと思う。
日本ではイタリア語やドイツ語やフランス語を解する人は少ないので、どんなに発音をよくしても、実際に客席で聴いていてその発音が良いか悪いかの判断がつく観客はほんの一握りかもしれない。(英語は日本人も慣れ親しんでいるため、英語作品を上演すると観客から「発音が悪い」とクレームが来る率が高いそうである。)でもオペラ作品はテキストと音楽が密接に連動しているので、作曲家が音符に込めた意図をなんとか正確に表そうと努力する姿勢は大事。言語コーチが微に入り細に入り発音を直す、一見膨大なムダにも思える努力を行っている場に居合わせるのはオペラで働く喜びのひとつだ。
今回の言語コーチングで学んだことのいくつか。
・フランス語は母音の言葉である。意味を強調したい時は子音でなく母音を使って強調する。(ドイツ語だと子音がもっと大事になる)
・フランス語の歌は言葉のアクセントとフレーズ中のアクセントがマッチしていないことが多い。つまり、フレーズの中で強調すべきではない個所に、言葉のアクセントがおかれていたりすることがある。そのため、フレーズをなめらかに歌うことによって、どこにアクセントがあるかが不明瞭にするとよい。
・フランス音楽は小節単位ではないのでフレーズをスムーズにすること。
・リエゾンの部分は強調しないように歌う。
・ouというスペルは常に純粋な”u” (IPAのu)で発音される。(フランス語は比較的、スペルと発音がマッチしている言語なので、一度パターンを覚えてしまえばだいたい事足りるが、例外もあるので)
日本人がもっとも不得意なのは、“schwa”と呼ばれる、IPAでは ə と表記される曖昧母音である。日本語には曖昧母音はないので、どうしても「ウ」とか「オ」とか「エ」のような音で発音してしまいがちなのだが、この音は口と唇に一切力を入れず、ぽかんと開けた状態で出す。əをきれいに発音できるととてもフランス語らしくなり聴いていて気持ちが良い。
ところで、フランス語はイタリア語やスペイン語と同じように口語ラテン語から派生したロマンス系言語だが、イタリア語・スペイン語・ポルトガル語とはずいぶん発音の性質が違うのを不思議に思っていた。鼻音が多用されているのがまず違うし、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語はスペルと発音がだいたい一致しているけれども、フランス語はスペルと発音が全然違う。フランス語も11世紀ころまではスペルの通りに発音していたらしいのだが、その後どんどん語尾の発音が省略されるようになり、現代フランス語の発音はスペルとはかけ離れ、スペルの複雑さからは想像つかないほど発音は短いところが、他のロマンス言語と全然違う。
その理由は、現在のフランスにあたる地域ではローマ帝国による征服以前、現地人がケルト語を話していたため、その影響を受けたからだそうである。フランス語特有のリエゾンや、アクセントのない音節の消失、母音を浅めに発音することなどが、影響の名残とのことだ。
下記は、ウィキペディア英語版の「フランス語の音韻史」というページからコピーした、フランス語の発音の進化。これを見るとわかるように、chanter (歌う)という動詞は、古フランス語ではラテン語と似て、スペルの通りに、格変化による語尾の違いもちゃんと発音していた。それが今では(右端の列の発音記号を見てください)どの格も発音が、笑えるほどほとんど同じ!それでもスペルは数百年変えずに元の形を保っているのが、なんとも不思議な言語である。
証拠のない推測だけれど、フランスはイタリアやスペインに比べて圧倒的に寒いので、口を大きく開けずに意味を変えるよう発音を工夫していったからではないか?と思っているのだが…
Development of French pronunciation over time |
||||||
Form |
Latin |
Old French |
Modern French |
|
||
spelling |
pronunciation |
spelling |
pronunciation |
|
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Infinitive |
cantāre |
chanter |
/tʃãnˈtæɾ/ |
chanter |
/ʃɑ̃ˈte/ |
|
Past Part. |
cantātvm |
chanté(ṭ) |
/tʃãnˈtæ(θ)/ |
chanté |
/ʃɑ̃ˈte/ |
|
Gerund |
cantandō |
chantant |
/tʃãnˈtãnt/ |
chantant |
/ʃɑ̃ˈtɑ̃/ |
|
1sg. indic. |
cantō |
chant |
/tʃãnt/ |
chante |
/ʃɑ̃t/ |
|
2sg. indic. |
cantās |
chantes |
/ˈtʃãntəs/ |
chantes |
/ʃɑ̃t/ |
|
3sg. indic. |
cantat |
chante(ṭ) |
/ˈtʃãntə(θ)/ |
chante |
/ʃɑ̃t/ |
|
1pl. indic. |
cantāmvs |
chantons |
/tʃãnˈtũns/ |
chantons |
/ʃɑ̃ˈtɔ̃/ |
|
2pl. indic. |
cantātis |
chantez |
/tʃãnˈtæts/ |
chantez |
/ʃɑ̃ˈte/ |
|
3pl. indic. |
cantant |
chantent |
/ˈtʃãntə(n)t/ |
chantent |
/ʃɑ̃t/ |
|
1sg. subj. |
cantem |
chant |
/tʃãnt/ |
chante |
/ʃɑ̃t/ |
|
2sg. subj. |
cantēs |
chanz |
/tʃãnts/ |
chantes |
/ʃɑ̃t/ |
|
3sg. subj. |
cantet |
chant |
/tʃãnt/ |
chante |
/ʃɑ̃t/ |
|
1pl. subj. |
cantēmvs |
chantons |
/tʃãnˈtũns/ |
chantions |
/ʃɑ̃ˈtjɔ̃/ |
|
2pl. subj. |
cantētis |
chantez |
/tʃãnˈtæts/ |
chantiez |
/ʃɑ̃ˈtje/ |
|
3pl. subj. |
cantent |
chantent |
/ˈtʃãntə(n)t/ |
chantent |
/ʃɑ̃t/ |
|
2sg. impv. |
cantā |
chante |
/ˈtʃãntə/ |
chante |
/ʃɑ̃t/ |
|
2pl. impv. |
cantāte |
chantez |
/tʃãnˈtæts/ |
chantez |
/ʃɑ̃ˈte/ |
|